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ロシアが社会主義国家となった原因「ロシア革命」をわかりやすく解説

1922年から1991年まで存在していた社会主義国家のソ連。この国は元々ロシア帝国という絶対王政の元で政治を行なっていたのですが、とあることがきっかけで革命が起こりそして世界最初の社会主義国家へと変貌を遂げました。そこで今回はそんな変貌を遂げるきっかけとなったロシア革命をロシア帝国がソ連に変わるまでみていきましょう。

終わりの始まりの血の日曜日事件

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時は日露戦争でロシアが苦戦を強いられていた1905年。当時のロシア国内ではあまり強くなかった国力や日露戦争による予想外の出費があり、国民が今日食べれる分の食料が首都であるペトログラードにあるかないかレベルの危機に追い込まれていました。これをロシア皇帝ニコライ2世や政府関係者はこれは日露戦争に勝つための必要な犠牲と考えていましたが、国民からしたら日露戦争なんて不要なもの。即時に講和してもらって食糧を手に入れるようにしてほしいと思っていました。

そこでロシアにいた神父であるガポンという人は農民11万人を連れてロシア皇帝の住まいである冬宮を訪問してロシア皇帝直々に食糧を確保する確約を得ようと計画します。しかし、この頃はまだ食糧は欲しいと考えていたものの、皇帝に対して尊敬もしていたため警察や警備員にアポを取って平穏な形に収めるように心がけていました。

しかし、いざデモを起こすとなるとニコライ2世は衝撃的な命令を下してしまいます。なんと、ニコライ2世に請願する農民11万人に対して銃撃を命令。3000人の農民は虐殺されてしまったのでした。

こうなると「話が違うぞ!」とカンカンに怒っている国民たち。まぁ、いきなり銃撃なんてされたら誰でも怒りますよね。この結果ロシアでは皇帝を退位させて国民主体の新しい国家を作る動きが出てき始めました。つまり、この血の日曜日事件と呼ばれる事件がロシア革命の源流となっていったのですね。

ロシア第一革命の勃発

血の日曜日事件の後ロシア国内では日露戦争の実質的な敗北もあって大混乱状態に陥ってしまいます。国民は血の日曜日事件によって大激怒。農民が各地で反乱を起こしたり、労働者たちがストライキを起こして国内の産業を停滞に追い込むなど実力行使にどんどん踏み切っていき、ロシア第一革命と呼ばれる一大政治改革運動が巻き起こっていったのでした。

そして、ニコライ2世はここにきてようやく事態の様相をつかんだようで「このままでは退位に追い込まれてしまう」と戦々恐々。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約において一応ロシアの面目を保ったウィッテという政治家はニコライ2世に対して「このままではフランス革命みたいな結末が待っています!!頼みますから憲法と国会を作る許可を出してください!」と鬼の様相で頼み込み、ついにロシアでニコライ2世の政治を助ける形で国会と憲法が作られる運びとなったのでした。

国会と憲法はできたものの…

こうしてロシアに作られた国会と憲法。しかし、ウィッテが望んでいた今の日本のような憲法や国会ではなく、制定されたのはあくまでもニコライ2世の政治を助ける形に終わり、さらに憲法を作って首相に就任したウィッテも保守派のストルピンによって失脚に追い込まれてしまい、国民が思い描いていた立憲政治は実現せずに終わってしまったのでした。

しかし、国民は皇帝ではなく国民が政治を行えるようにすることを諦めてはおらず、各地でソビエトと呼ばれる会議を開催していき、ロシアは再び革命が起こる様子を呈していったのでした…

第一次世界大戦におけるロシア

時代は一気に進みロシア第一革命が起こった9年後の1914年。この時のニコライ2世はとあることに熱中していました。当時、ヨーロッパ国内ではビスマルクが必死に作り上げた体制を物の見事にヴィルヘルム2世がぶち壊したことで不安定にさせ、さらにヨーロッパの南側のバルカン半島と呼ばれている地域は民族紛争が後を絶たず『ヨーロッパの火薬庫』とも呼ばれるほど危険地帯だったのです。

しかし、ニコライ2世はこのバルカン半島に勢力を伸ばすことに必死。汎スラヴ主義を唱えてセルビアなどのロシアと同じスラヴ民族が住んでいる国に対して独立保障をかけていました。

しかし、サラエボ事件によってオーストリアがセルビアに宣戦布告するとこの野望が逆方向に働いてしまい、ロシアはオーストリアに対して宣戦布告しなければいけなくなってしまい、さらにオーストリアの同盟国であったドイツとも戦わなければいけなくなるなど、ロシアとしては避けたかった戦争という最悪のパターンに進んでしまったのです。

ロシア二月革命

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第一次世界大戦が始まるとロシアでは是が非でも戦争に勝つために総力戦という「全ての戦力と戦費をぶち込んで戦争をする」という当時のロシアの状況からしたら破滅まっしぐらの様相を呈していきます。しかし、日露戦争で日本に負けて以降あまりぱっとしないロシア陸軍は最初の方では勝っていたものの、時が経つにつれてドイツに連戦連敗を積み重ねて行くようになり、国内では血の日曜日事件が起こっていたよりも酷い苦しい生活を送らなければいけなくなっていました。

そして血の日曜日事件から生活をよくして欲しいと願っていた国民の怒りはついに大爆発。ニコライ2世の退位を求める一大運動となっていきます。そしてその運動はとどまることを知らずにどんどん増大。国会は停止されその代わりに国会議員中心の政府である臨時政府を打ち立ててニコライ2世に対して退位するように要求します。これにはニコライ2世もお手上げのようで皇帝を退位。後を継ぐものがいなかったため、これにより300年続いたロマノフ朝は滅亡してしまいました。

ソビエトの成立

二月革命によってニコライ2世が退位すると臨時政府はこれまでためらわれてきた言論の自由や労働者の権利など国民がずっと願っていた権利を次々と実現させていき、ロシアの改革は進んでいきます。しかし、肝心の戦争の方はというとドイツが快進撃を続けているにもかかわらず、「戦争に勝つまで戦争をやめない」と表明するなど強硬的な姿勢をとりました。でも、いくら権利を国民に与えても国民の生活が苦しくなっている原因である戦争をやめなければ国民としたら納得いきませんよね。

そのため国民はこの戦争を続けようとする臨時政府に疑問を持ち始め、戦争を即時に中止するようにするために国内の労働者たちがソビエトという会議を開くようになっていきます。ちなみに、のちに成立するソビエト社会主義共和国連邦のソビエトはここから取られていました。

七月暴動とレーニンの登場

二月革命以降ロシアでは臨時政府とそれに反抗するソビエトの二重権力の時代となっていき政治的に不安定な状態となっていきます。1917年7月には臨時政府と労働者の間で七月暴動と呼ばれる反政府運動が勃発。労働者と臨時政府の対立は決定的なものとなり、さらにロシアの敗戦が決定的なものになると国内では軍事クーデターが相次いで起こるなど革命に混乱の状況が見られるようになっていきます。

そんなぐちゃぐちゃになっていたロシアを労働者主体の国にしようとしていたのがのちにソ連を作ることになるレーニンだったのです。レーニンは元々ロシアの裕福な家庭に育ったのですが、共産主義を世界に広めたマルクスの著書『資本論』を読み共産主義者に。政府によってシベリアに流刑になりながらもロシアでの共産主義国家樹立のために奔走していました。そして七月暴動以降フィンランドに逃れたレーニンは、労働者による独裁、ボリシェヴィキ独裁をロシアに打ち立てるためロシアに帰国。赤軍を組織してどんどん臨時政府を倒す準備を進めていきました。

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