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大国の侵略によって分割された「ポーランド分割」とは?背景から独立まで元予備校講師がわかりやすく解説

第一回・第二回ポーランド分割

王権が弱体で、統一した王国としての機能が弱かったポーランドは、周辺国の格好の草刈り場となっていきます。特に、国境を接するロシア・オーストリア・プロイセンは露骨にポーランドを侵食しました。

ロシアのエカチェリーナ2はポーランド全土の保護国化を意図します。これを察したプロイセン王フリードリヒ2はオーストリアのヨーゼフ2とともにロシア・オーストリア・プロイセンの3国によるポーランド分割を提案。ポーランドは3国の圧力に屈し、国土の3分の1にあたる地域を3国に割譲しました(第一回ポーランド分割)。

1793年、フランス革命の混乱に乗じ、ロシアとプロイセンは再びポーランドを分割します。ポーランドは東部領土をロシアに、西部領土をプロイセンに奪われ弱小国に転落しました(第二回ポーランド分割)。

コシューシコの抵抗と第三回ポーランド分割

二度にわたるポーランド分割の結果、ポーランドは弱小国に転落します。この状況に危機感をもって立ち上がったのがコシューシコでした。コシューシコはアメリカ独立戦争フランス革命に参戦した経験を持つ軍人で、列強のポーランド分割に激しく憤ります。

1794年、コシューシコはフランスから帰国。農民たちを組織して反ロシアの戦いを始めました。ポーランドの古都クラクフで蜂起したコシューシコ軍はワルシャワに進撃。4月4日、ラツワヴィーツェの戦いでロシア軍に勝利します。

5月7日、コシューシコは農奴解放を宣言しました。フランス革命を経験しているコシューシコとしては、農奴解放は当然のことだったのでしょう。しかし、伝統的な支配階級であるシュラフタは多数の農奴を保有していたため、コシューシコに協力しなくなりました

全国民でロシアに抵抗するというコシューシコの目論見は崩れ、体勢を立て直したロシア・プロイセン両軍に敗北。コシューシコの蜂起は鎮圧されてしましました。その後、ポーランドは3回ポーランド分割により地図上から消滅してしまいます。

 

ポーランドの独立に向けて

image by PIXTA / 58609309

三度にわたるポーランド分割の結果、ポーランドは地図上から姿を消してしまいました。ナポレオンによる大陸征服で、一時的にワルシャワ大公国として復活します。しかし、ナポレオンの失脚後、ポーランドはロシアの支配下に入りました。ポーランド人はロシアから独立するため何度も反乱を起こしますが失敗します。ポーランドが独立を回復するのは第一次世界大戦後のこととなりました。

 

ナポレオンの大陸制覇とワルシャワ大公国の成立

1804年、フランス革命の英雄ナポレオンフランス皇帝として即位しました。即位の様子を描いたダヴィドの「ナポレオンの戴冠式」の絵画は非常に有名ですね。1805年、ナポレオンはイギリス攻略を目指しましたがトラファルガー海戦で敗北。矛先を東へ向けます。

1805年、ナポレオンはオーストリア・ロシアとアウステルリッツ三帝会戦で鮮やかな勝利をおさめました。ナポレオンが南西ドイツ諸侯を集めてライン同盟を結成すると、プロイセンはナポレオンとの戦いを決意します。

1806年、プロイセンはイエナでナポレオン軍と戦いました。しかし、ナポレオン軍に大敗。ティルジットの和約で多くの領土を失います。ナポレオンはワルシャワ周辺の地域にワルシャワ大公国をつくりました。ワルシャワ大公国はドイツのザクセン公が大公を務めたため、ポーランド人の国とはいいがたいものです。

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