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カンボジアの世界遺産【アンコール・ワット】の歴史とは?見どころもわかりやすく解説

楽天トラベルが2016年に行った「ぜひ行ってみたい世界遺産ランキング」で堂々2位になったのが「アンコール・ワット」です。位置的には東南アジアの国カンボジアの北西部にあり、州都シェムリアップのすぐ近くにある場所です。1990年代までは激しい内戦があったこともあり、ちょっと行きづらいかな?という印象があるかも知れませんが、その荘厳な建築物の佇まいや仏像たちの雰囲気には必ず魅了されるはずです。ぜひ一度は訪れてほしい所だと思います。そこで、このアンコール・ワットの歴史と共に、ご覧頂きたい見どころスポットもご紹介しますので、ぜひ参考にしてみて下さいね。

波乱のアンコール・ワットの歴史とは?

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9世紀初めに興り、カンボジアを中心としてインドシナ半島に強大な勢力を誇ったクメール王朝によって、アンコール・ワットは築造されました。護国寺院としてのスタートから、王朝の衰退に伴う放棄、そして現代の内戦による荒廃など波乱の歴史を刻んだアンコール・ワットの歴史をご紹介していきましょう。

クメール王朝の最盛期、アンコール・ワットが誕生する

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By ReijiYamashina投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

クメール王朝(アンコール王朝とも)の創建者といわれるジャヤヴァルマン1世は、アンコール地方を平定してジャワの支配から分離してプノンクーレンの山頂で即位。802年にクメール王朝を創始しました。プノンクーレンは現在でも信仰の山となっており、アンコール発祥の聖地だとされています。

その後、クメール王朝は周辺のチャンパ王国やタイなどと戦いを繰り返し、インドシナ半島に強大な勢力を築いたのです。経済的、文化的にも発展を遂げ、建築や彫刻などが特徴的なクメール文化として花開きました。

12世紀初めに即位したスーリヤヴァルマン2世の代に、ますます領土を拡張し、首都をアンコールに定めました。大規模な都市計画とともに、国家の中心となる護国寺院の建設も進められ、足掛け30年の歳月をかけて完成しました。それがアンコール・ワットなのです。

クメール語で「アンコール」は街を意味し、「ワット」は寺院を意味します。いわば国家の鎮護となるべきお寺だったということ。日本で例えれば東大寺などがふさわしいでしょうか。

また、ジャヤヴァルマン7世の治世には遠くマレー半島にまで勢力を拡大し、東南アジアの大帝国となったクメール王朝はまさに全盛期を迎えることになりました。今でも残る城塞都市アンコール・トムや寺院遺跡バンテアス・スレイなどの遺跡群が造られたのも、この頃のことでした。

クメール王朝の衰退とアンコール・ワットの放棄

クメールは非常に特異な体質を持った王朝でした。王の継承というと例えば、血の繋がりが重視される世襲制というものが一般的ですが、クメールの場合は完全実力主義でした。いわば実力を持った者のみが王になれるわけなので、必然的に政争や争乱が絶えません。

周囲の敵対勢力の力も侮りがたく、歴代の王たちはその対応にも追われました。そういった混乱や緊張から国内は次第に疲弊していったのです。更にそれに拍車を掛けたのが13世紀中頃に登場したジャヤヴァルマン8世の存在でした。

クメール王朝は仏教国であったにも関わらず、彼はヒンドゥー教に深く帰依しており、アンコール・ワットバイヨンなどの大寺院をヒンドゥー寺院にしようとして反対勢力を排除した上で廃仏を激しく行ったのでした。

荒廃が進んでいくクメール王朝に対して、外部の台頭勢力だったアユタヤ王朝が攻勢に出てきました。度重なる攻撃についに抗しきれず、クメール王朝はアンコールから南部のプノンペンに移り住みました。

1431年、アンコールは完全に放棄され、やがてその存在も忘れられるようになってしまったのでした。

アンコール・ワットの発見と暗黒時代

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クメール王朝が衰退した後、アユタヤを宗主国とするカンボジア王国がアンコール地方を支配していました。

1550年頃、国王のアン・チェン1世が森深くに象狩りに出かけた時、その途中に放棄されて荒廃したアンコール旧王都を発見しました。城塞や市街はすでに深い森に覆われていましたが、アンコール・ワットは付近の住民たちによって聖地として崇められていたため手入れはされていたようです。国王はさっそく改修を指示。さらに孫のサター1世は寺院に安置されていたヒンドゥーの神ヴィシュヌ像を4体の仏像に置き換え、仏教寺院として蘇らせました。

17世紀初め、東南アジアの各地で日本人町が形成され、アンコール・ワットの噂も朱印船などを通して聞こえてきていたようです。加藤清正に仕えた股肱の臣、森本儀太夫の次男だった一房は、加藤家を辞して松浦家へ仕えていましたが、父の菩提を弔うために仏教聖地アンコール・ワットを訪れた時の様子が、今でも壁の落書きとして残っています。

 

「寛永九年正月初而此所来。生国日本肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫一房。

御堂心為千里之海上渡。一念之儀念生々世々娑婆寿生之思清者也為。

其仏像四躰立奉者也。」

(寛永九年正月、初めてここへ来ました。生まれは日本国肥前国の住人「森本右近太夫一房」。一念を念じ、世々娑婆浮世の思いを清めるために、ここに仏像を四体奉るものです。)

 

徳川幕府の鎖国政策によって、これ以降は日本人の記録は途絶えますが、このあと政治的にはカンボジアの暗黒時代はかなり長く続きます。シャム(アユタヤ)の支配の時代は続き、その後の1887年にはフランス領インドシナとして編入されたのです。

しかし、歴史的価値と芸術的価値を大いに認めたEFFO(フランス極東学院)によって、アンコール・ワットの修復保全は続けられてきたのでした。

クメール・ルージュの支配とアンコール・ワットの破壊

第二次世界大戦後、1953年にシアヌーク国王のもと独立が宣言され、カンボジアは独立国として新たなスタートを切りました。

ところが、ベトナム戦争を背景とした政争が激しくなり、1970年にシアヌークはクーデターによって国外へ追放されて、アメリカを後ろ盾にしたロン・ノル政権が成立。しかしアメリカ軍がプノンペンから撤退すると、国民の反米感情の高まりからロン・ノル政権は崩壊してしまいました。

その後を受けて政権を奪取したのが悪名高いクメール・ルージュだったのです。ポル・ポト派とも呼ばれますが、彼らは極端な原始共産主義を掲げ、「ゼロから国作りを始める」ことをスローガンに、都市部の住民を強制的に農村部へ移住させたり、宗教活動や文化活動などを一切禁止しました。また、反政府層や知識階級、中国系ベトナム系住民の抹殺を図ってホロコーストを行うなど、殺戮と破壊の限りを尽くします。結果、国民の生活レベルは石器時代へ逆戻りし、そのダメージは深刻な形で現在も続いているといわれているのですね。

この時にアンコール・ワットに安置されていた仏像も多くが破壊され、敷石代わりにされてしまったそう。宗教的なものを徹底的に敵視する彼らの行動は、後のタリバンISのようですね。

1979年、クメール・ルージュが政権を追われると、アンコール・ワットに逃げ込んで軍事的な拠点として利用されるようになりました。堅牢な建築物があり、広い堀も備えている場所は、彼らにとって城塞そのものだったのです。

この内戦でアンコール・ワットも大きな被害を受けました。内戦が収まりつつあった1992年、アンコール・ワットはユネスコ世界遺産に指定され、世界各国が協力をして修復が進められるようになりました。その際に日本の石工技術者も参加し、現地の人に技術指導を行ったそうですね。

現在も修復が続けられているアンコール・ワットですが、また別の厄介な問題も出てきているようで、化石燃料の燃焼に起因する酸性雨が遺跡にダメージを与え続けているようです。こういった問題をクリアしていかなければ、世界遺産の保全は難しいのでしょうね。

アンコール・ワットの見どころをご紹介!

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アンコール・ワットは一つの寺院遺跡というわけではなく、他にアンコール・トムタ・プロームといった複数の遺跡を含んだ遺跡群のことを指します。ですので、京都の寺院を拝観する感覚と同じというわけではありません。最低でも半日は軽く掛かりますし、じっくり見ようとすれば2~3日は必要になるでしょう。そこで、ポイントとなる見どころを紹介していきますね。

シェムリアップへのアクセスはどうすればいい?

団体ツアーなどでしたら、すべてを旅行会社がやってくれるので何も心配はないのですが、旅行費を安く抑えるためや、自由に行動したい時などに、個人旅行という選択肢を選ぶ方も多いのではないでしょうか。まずはアンコール・ワットまでのアクセスを解説していきますね。

アンコール・ワットへの観光の拠点となる都市がシェムリアップになります。6キロほどしか離れていないため、宿泊や食事のほとんどは、ここでまかなうことになりますね。

まずシェムリアップには大きな国際空港があります。ハノイ、ホーチミン、バンコク、プノンペンから国際便や国内便がフライトしているため、まずは日本の成田もしくは関空から経由地まで飛ぶ必要性があるのですね。

最もポピュラーなアクセスとして、成田→バンコクまでの国際便はなんと15便もあります。それからバンコク→シェムリアップまでは2019年6月現在ですと11便ありますので、バンコクでのトランジットも比較的容易なのかなと思いますね。最近は首都プノンペンまでの直行便も就航しているので、プノンペン経由のほうがリーズナブルになる可能性も。

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明石則実