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大国の侵略によって分割された「ポーランド分割」とは?背景から独立まで元予備校講師がわかりやすく解説

ヨーロッパにある北ヨーロッパ平野。その東部は特にポーランド平野とも呼ばれます。ドイツとロシアの間に位置するポーランドは中世には強大な国家として繁栄しました。しかし、近代になると中央集権化が進まなかったため、ドイツ・オーストリア・ロシアの進出を防ぐことができず、これら3カ国によって分割されてしまいました。今回はポーランドポーランド分割の背景や経緯、ポーランドの独立について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

ポーランド分割の背景

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西スラヴ人の国であるポーランドは、14世紀にリトアニアと合同することで東欧最強の国家となりました。16世紀後半にヤゲウォ朝が断絶すると、シュラフタとよばれる土地貴族が国政の実権を握り、国王は貴族たちの選挙によって選ばれるようになりました。イギリス・フランスなどが中央集権を進める中、ポーランドは中央集権が進まず弱体化。17世紀罹ゴロに周辺諸国の侵入を招き、ポーランドは衰退します。

中世東欧で最強だったヤゲウォ朝

10世紀ごろ、ポーランド平原に住んでいた西スラヴ族のポーランド人はキリスト教(カトリック)を受け入れ、キリスト教国家となりました。14世紀後半、ピアスト朝ポーランド王国のカジミェシュ3クラクフを首都としてポーランドを発展させます。

カジミェシュ3世の死後、ピアスト朝は断絶し王家の血を引くヤドヴィガ女王が即位。ヤドヴィガの夫であるリトアニア大公ヤゲウォを迎え、ポーランドとリトアニアは連合王国となりました(ヤゲウォ朝)。

ポーランド=リトアニア連合王国はバルト海沿岸を領有していたドイツ騎士団と対立。1410年にタンネンベルクの戦いが起きます。この戦いでヤゲウォ朝はドイツ騎士団に勝利し、バルト海への出口であるダンツィヒ(グダニスク)を獲得しました。

1569年、ポーランドとリトアニアはルブリンの合同で正式に合同。ヤゲウォ朝はウクライナも支配する強大な国となりました。

ポーランドの選挙王政とシュラフタ

ヤゲウォ朝の領土は大きく拡大しました。その一方で、タンネンベルクの戦いなどで主力として戦ったシュラフタ(土地貴族)の発言力は大きく強まります。

1572年、ヤゲウォ朝が断絶すると国王はシュラフタたちの選挙によって選ばれるようになりました。シュラフタたちは自分たちの力を押さえつけるような強大な王権を望みません。そのため、国王にはポーランド国内に基盤を持たない外国出身者を選びます。

一般に、貴族による選挙王政を実施した場合、中央集権化は遅れがち。代表的な例は隣国のドイツ(神聖ローマ帝国)でしょう。神聖ローマ帝国では7人の選帝侯が皇帝を選ぶ仕組みだったので、各地の地方君主(領邦君主)の力がのちの時代まで温存されました。ポーランドでも、シュラフタの力が維持されます。

ポーランド弱体化のきっかけとなった「大洪水」とは

広大な国土を擁する割に、弱体な国家の寄せ集め状態となっていったポーランド。そこで、弱体化のきっかけとなる「大洪水」が発生しました。大洪水といっても、自然災害ではありません。周辺諸国がまるで洪水のようにポーランドに押し寄せたことから、大洪水とよばれたのです。

大洪水のきっかけは1648年のウクライナ居住のコサックたちの反乱でした。コサックは南ロシアの平原地帯で半農半牧の生活を送る人々のこと。彼らの宗教はギリシア正教で、カトリックを信仰するポーランドの支配を好みませんでした。

コサックたちは同じくギリシア正教を信仰する隣国のロマノフ朝ロシアに援軍を要請。1654年にロシアが要請に応じて派兵すると、ロシアと対抗関係にあった北方のスウェーデンもポーランドに派兵。ポーランド国内で大戦争となります。

一連の戦いでポーランドの国土は荒廃しました。戦いによるポーランドの衰退に乗じて、属国だったプロイセン公国がポーランドから独立を果たします。

ポーランド分割の経緯

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匿名http://www.polona.pl/dlibra/doccontent?id=5762&from=FBC, パブリック・ドメイン, リンクによる

18世紀になると、ヨーロッパでは大戦争が繰り返し発生しました。その中でロシア・オーストリア・プロイセン・イギリス・フランスが五大国として力を持ちます。ポーランドは中央集権化できないままだったため、周辺国の格好の餌食となっていきました。18世紀後半、ロシアとオーストリア、プロイセンの3国はポーランドを3度にわたって分割してしまいます。

ポーランド継承戦争

18世紀、ヨーロッパではスペイン継承戦争北方戦争オーストリア継承戦争七年戦争など大戦争がたびたび発生しました。戦争が繰り返された結果、ロシア・オーストリア・プロイセン・イギリス・フランスの五カ国がヨーロッパの強国として、のし上がります。

1733年、ポーランド国王アウグスト2が死去。ポーランドの王位が空きました。フランス王ルイ15世はポーランド貴族たちに工作し、スタニスラス1を国王に選出させます。オーストリアとロシアは、スタニスラス1世の即位に反対。アウグスト2世の子を擁立して対抗しました。

1733年、ルイ15世はオーストリアに宣戦布告しポーランド継承戦争が始まりました。当初、戦局はフランスに有利でしたがロシアが参戦したため、フランスが妥協。スタニスラス1世の即位をあきらめました

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