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明治新政府初の外交問題に発展した「神戸事件」とは?地元在住の筆者が解き明かす!

関西の中で、最もおしゃれで小粋な街といえば「神戸」と答える人が多いと思います。三宮や元町など百貨店やアーケードが軒を連ね、休日ともなれば多くの人や観光客たちが行き交います。とはいえ、神戸は歴史的に見ても比較的新しい街で、明治時代になってから大きく発展してきました。その一方で、発足したばかりの明治新政府が、重大な外交問題に初めて直面したのも、神戸で起きた岡山藩兵と外国人との衝突事件となった「神戸事件」がきっかけだったのです。地元在住の筆者が、神戸事件のあらましを解説していきましょう。

岡山藩の動きと、当時の神戸の状況

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最後の将軍徳川慶喜が大政奉還を行ったことにより、長きに渡り日本の政権を担ってきた江戸幕府が終焉を迎えました。しかし、あくまで武力倒幕を目指していた薩摩藩と長州藩は、度重なる挑発によって慶喜を戦場へ引きずり出そうとします。鳥羽伏見の戦いの結果、旧幕府勢力は敗走することになりますが、その直後に神戸事件が起こることになりました。まずこの事件の主役岡山藩の動きと、当時の神戸の状況を追っていきましょう。

西宮へ向かっていた岡山藩兵

1868年1月(陽暦)、発足したばかりの明治新政府は、備前国岡山藩に対して畿内への出動要請を下します。目的は摂津国西宮(現在の兵庫県西宮市)を警護するため。西国街道が通る交通の要衝であり、船舶の寄港地としても重要な拠点でした。また去就が明らかでない尼崎藩主松平忠興を牽制するという目的もあったのです。

決戦直前のこと、大坂城はじめ要地は旧幕府軍が確保していましたし、旗幟を鮮明にしない藩も多かったためでした。そんな中、岡山藩兵約2千は続々と西宮を目指して西へ進みます。

岡山藩兵のうち、家老の日置(へき)忠尚に率いられた人数は340人余り。半分が雑役(臨時雇いの足軽や雑人)で、れっきとした侍は189人ほどでした。またその中に日置の側近である滝善三郎正信がいました。滝は荻野流砲術家であった父に砲術を学び、文武に優れた人物だったそうです。その頃は藩の砲兵隊を率いていました。

1月27日、新政府軍と旧幕府軍の間で先端が開かれ、ついに鳥羽伏見の戦いが始まったのです。日置隊はこの頃ようやく播磨国へ入り、2月3日に明石へ到達します。西宮まではあと一日の行程でした。

当時の神戸はどんな様子だった?

現在の神戸市は人口100万を数える大都市ですが、この頃の神戸は近くに兵庫津という宿場はあるものの、神戸村という鄙びた寒村でした。集落のあった場所はちょうど現在の元町あたりになるでしょうか。

ところが幕末に開港地として指定され、神戸事件が起こる直前には兵庫港が開港されていました。すでに多くの外国人たちが来日していたようで、兵庫の西の関門から1キロほど離れた場所に外国人居留地がありました。現在の大丸神戸店の南側に【旧居留地】と呼ばれるエリアがありますが、その辺りに外国人関連の施設や建物が建っていたようです。

とはいえ開港からまだ間もなかったため、建物はまばらでしかなく、外国商人たちの姿もほとんどありませんでした。その一方で各国の領事館は開館していて、警備のための兵士たちの数は意外に多かったようです。

また兵庫港に近い海上には18隻もの艦船が停泊しており、陸と海それぞれに相当数の兵力がいたことがわかっていますね。このように当時の神戸には各国の公使や役人、兵士たちが多くいたことになり、それが結果的に神戸事件を大きな国際問題へと発展させていく布石となりました。

神戸事件の勃発

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岡山藩兵と外国人兵士が衝突したことにより起こった神戸事件ですが、なぜ双方とも武力を行使する必要があったのでしょうか?日本国内の緊張状態をよそに、比較的平穏だったはずの神戸ですから、そこには何らかのきっかけがあったことは確かです。そのあらましを見ていきましょう。

街道沿いの小競り合いから銃撃戦へ

2月4日、いよいよ神戸へ差し掛かった日置隊ですが、神戸に外国人が多く居留しているという情報は事前に確認していました。すでに前年12月に、外国人に対する対応などを覚書としているほどですから、ある程度のマニュアルなども準備していたのかも知れません。しかし、事件のきっかけはその想像の遥か上を行くものだったのです。

そのこともあって日置隊は西国街道を警戒しながら進みました。隊の先頭は、丹羽勘衛門率いる小銃隊。それに続いて家老津田孫兵衛の配下の侍たち、さらに続いて、滝源六郎(滝源三郎の兄)の率いる大砲方が続いていたといいます。

三宮神社付近に差し掛かった時、突然2人のフランス人水兵が滝源六郎率いる大砲方の前を左から南北に横切ろうとしました。源六郎は手真似で「列を横切るな!」と伝えます。通訳もいたため二人は立ち止まりました。

しかし今度は別の水兵が現れ、強引に列を横切ろうとしたのです。仕方なしに槍で押しのけたところ、誤って善三郎の前に出てしまいました。善三郎も同様に押しのけたところ、その水兵は激しく怒り出し、大声を上げて強引に押し通ったのでした。

日置隊のほとんどが、間近に外国人と接するのは初めてだったわけです。日本人よりはるかに背丈もある大男が、隊列のなかを乱暴に動き回るわけですから、混乱しないはずがない。

善三郎はとっさに槍でフランス人水兵を突いてしまいました。すると軽傷を負ったその男は逃げ出し、やがて周囲にいた外国人兵士たちが手に手に短銃を持って威嚇してきたのです。

一般的にいわれているところでは、銃を持った外国人を見た善三郎が「鉄砲!鉄砲!」と注意を促したことが発砲の合図となったとされていますが、当時の史料や聞書の中には出てきません。

おそらく混乱の中、誰が命令することなしに日置隊の銃隊が発砲したものでしょう。彼らが撃ち始めた時、居留地にいた外国人達は災難を避けるために、必死に走って逃げたり、蔭に隠れたりしました。そして短い時間の一方的な発砲の後、銃撃は止んだのです。

アメリカ公使ファルケンバーグの回想によれば、当時、運上所(公使館)のベランダにいて日置隊の隊列を眺めていましたが、数発の弾丸が建物に当たったものの、多くは至近距離を逸れていったといいます。

外国側の反撃始まる

折悪く、イギリス公使パークスも居留地に居合わせました。パークスは事の顛末に激怒し、諸国の駐留部隊に非常事態を通達。まず運上所にいたアメリカ兵が出動し、続いてイギリス・フランスの守備隊や護衛兵が反撃を開始しました。それぞれ武器を持ち、銃撃を終えて西国街道を東へ向けて歩き始めた日置隊を追ったのです。

さらにパークスは神戸沖に停泊していた艦船に緊急信号を送って陸戦隊を上陸させ、自らは馬で日置隊を追いました。そして東側にある生田川の河原で追いついた外国部隊は、日置隊に向けて銃撃を開始したのです。

日本をこよなく愛したといわれるアーネスト・サトウも当時、イギリス外交官として現地に居合わせました。

 

アメリカ海兵隊はすぐに相手を追撃した。わが第9連隊第2大隊の警備隊も召集され、また若干のフランス水兵も上陸を命ぜられた。

ブルースの指揮するイギリス警備隊の半数は、神戸から外国人区域へ通ずる入口を占拠するために急派され、残りの半数は敵を追撃して行った。

野原の東端にある生田川の河原に到るや、備前の兵士が約600~700ヤード前方を密集した縦列で進んで行くのが見えたので、川の堤の切れ目から突進して行って火ぶたを切った。

引用元 アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」下巻より

 

反撃を受けた日置隊は、生田川沿いの細道へ入って応戦。しかし日置隊が持っていた銃は旧式で威力も弱く、外国人たちが持つ新式銃に対して不利なことは明らかでした。兵数や武器の質で劣る日置隊は、騒動の拡大を恐れたこともあり、早々に山側(六甲山方向)へ撤退を開始します。

やがて外国人部隊も追撃をあきらめ、夜になって騒動はようやく収まったのです。激しい銃撃戦が起こった割には死者は一人も出ず、軽傷を負った者も数人に留まりました。

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