清洲会議の目的や背景、参加した武将について
清洲会議は、本能寺の変で織田信長と息子の信忠(のぶただ)が明智光秀によって死に追いやられたことを受けて開かれた、織田家の重臣会議です。織田政権を代表する4人の重臣たちが集まり開かれたのですが、明智光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)の発言権は大きく増していました。では、清洲会議の目的やそこに至るまでの事情、参加武将について見ていきましょう。
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清洲会議とは?
清洲会議は、天正10年6月27日(1582年7月16日)に、清洲城(愛知県清須市)で開かれた重臣会議です。集まったのは、当時は羽柴(はしば)姓を名乗っていた豊臣秀吉、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田恒興(いけだつねおき)。全員が織田家の重臣でした。
彼らが一堂に会した目的は、まず、本能寺の変で倒れた織田信長・織田信忠(おだのぶただ)親子の跡継ぎをどうするかということ。そして領地の再配分を話し合うことも目的でした。
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清洲会議に至るまで
織田信長は破竹の快進撃で次々と各地を平定し、ほぼ天下を手中に収めていました。しかし、天正10(1582)年6月2日未明、京都の本能寺にわずかな供と宿泊していた彼を、突然、明智光秀の軍勢が襲ったのです。信長はどうすることもできず、燃え落ちる本能寺と運命を共にしました。そして、少し離れた二条新御所(にじょうしんごしょ)にいた息子・織田信忠もまた光秀の軍勢に襲われ、自害してしまったのです。
信長を討った光秀ですが、彼の思惑とは裏腹に、彼に味方する武将はほんの一握りでした。そして、信長討たれるという報せを受けた秀吉が、当時攻めていた中国地方から猛スピードで京都へと戻り、光秀を山崎の戦いで破ったのです。光秀は落ち延びる途中に襲われて命を落とし、彼の三日天下はあっけなく終わりを告げたのでした。
そして、主君の仇を討つという大きな功績を挙げた秀吉は、その存在感を一気に増すこととなったのです。
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