室町時代戦国時代日本の歴史

信長が桶狭間の戦いで乾坤一擲の大勝利を収めた理由とは?わかりやすく解説

時は永禄3年5月19日、現在の暦に直すと1560年6月12日。織田信長率いる部隊が今川義元の本隊がいる桶狭間を急襲しました。視界を遮るほどの豪雨の中、織田軍の奇襲攻撃を受けた今川軍の本隊は壊乱状態に陥ります。そして、天下統一の夢を果たせぬまま今川義元は織田軍の毛利良勝に討ち取られました。信長が数倍の兵力差を覆した桶狭間の戦いとはどのようなものだったのでしょうか。戦いの背景・経緯・影響についてわかりやすく解説します。

桶狭間の戦いの背景

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1467年の応仁の乱以後、室町幕府の力は衰え全国各地で身分が下のものが上のものをしのぐ下剋上の時代に突入していました。現在の愛知県西部にあたる尾張では守護斯波氏の家臣である織田氏の力が増大。一方、現在の静岡県にあたる駿河・遠江では守護大名の今川氏の勢力が強まり戦国大名化していました。桶狭間の戦いが行われた背景を整理します。

織田信秀の勢力拡大

尾張守護は室町幕府で管領を務める名門の斯波氏でした。室町時代、守護は京都にいることが多く尾張の支配は守護代の織田氏に委ねられています。織田信秀は尾張守護代織田氏の分家といってもよい家に生まれました。

信秀は木曽川に臨む港町津島を支配し、その経済力を活用することで勢力を拡大。信秀は那古野城(現名古屋市)や熱田も勢力下に組み込んで力を増していきました。1535年、隣国三河の松平清康に尾張に攻め込まれたときは清康の急死による混乱に乗じて三河安祥城を占拠。松平氏を支援した今川の軍勢と戦いました。

その一方、北の美濃を支配する斎藤道三とはたびたび合戦。西では今川、北では斎藤に挟まれ、さしもの信秀も苦戦することが多くなります。加えて、織田一族の結束も盤石ではなく、尾張上四郡を支配する織田大和守家との紛争も絶えませんでした。

今川氏の三河進出

駿河・遠江を支配していた守護大名の今川氏は内紛に苦しんでいました。1536年に今川氏輝が急死すると後継者をめぐって氏輝の弟同士で対立。家臣を巻き込んだ内乱に発展しました。これを花倉の乱といいます。

この乱に勝利して今川家の家督を継いだのが今川義元でした。義元は甲斐守護の武田家と手を結び駿河東部の領有権を争う北条氏に対抗。勢力基盤を固めていきました。北条氏が危機に陥った河越合戦では、危機に乗じて駿河東部の支配権を北条氏より奪い返します。

これにより、駿河・遠江での支配を安定化させた義元は西の三河へと進出しました。西三河を支配していた松平広忠は義元に従属します。これに危機感を覚えた織田信秀が三河に攻め込みますが小豆坂の合戦で今川軍が勝利。以後、今川義元は三河の支配を進めていきます。

甲相駿三国同盟の結成

このころ、甲斐の武田氏と駿河・遠江の今川氏は互いに婚姻関係を結び、強い同盟関係にありました。その一方、北条氏と今川氏は駿河東部をめぐる争いの遺恨から緊張関係にあります。武田氏は信濃方面へ、今川氏は三河方面への進出を目指していましたが背後の北条氏が気がかりでした。

一方、北条氏は河越合戦で勝利したのち、関東各地へと勢力を広げます。北条氏としては河越合戦のように今川・武田を巻き込んだ「反北条同盟」が結成されることが心配です。ここに、今川・武田・北条の利害が一致しました。

この三国が同盟を結ぶことで、武田は信濃へ、今川は三河・尾張へ、北条は北関東や房総半島へと安心して勢力拡大できるようになります。かくして、甲斐(武田)・相模(北条)・駿河(今川)の同盟が成立しました。

信秀の死と信長の家督相続

1552年、織田信秀が40代の若さでこの世を去ると、信長が織田家を相続しました。家督相続直後に信長が直面したのは尾張国内での一族同志の争いです。信秀の力は認めざるを得なかった他の織田一族ですが、若いころから「うつけ」とよばれた信長の力量を認めていなかったからでした。

まず、信長は守護代の清須織田家と戦い清須城を手に入れます。続いて、有力な家督相続候補だった弟の信勝を稲生の戦いで撃破。一度は母のとりなしで許しますが、のちに、弟を殺害しています。この時、柴田勝家らは信長の支配下に入りました。

勢いにのった信長は尾張上四郡を支配する岩倉織田家も浮野の戦いで打ち破ります。翌年には岩倉織田氏の本拠地の岩倉城を制圧。こうして信長は1559年までに尾張国内をほぼ平定したのです。

桶狭間の戦いの経緯

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尾張で信長が勢力を拡大させつつあったころ、西の今川義元は甲相駿三国同盟を活かして西への勢力拡大を図っていました。西三河の松平広忠の死後、岡崎城に今川の代官が入るなど着実に三河支配を固めます。そして、1560年、今川義元は駿河・遠江・三河に動員命令を発し、京都に向けて進軍を開始しました。

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