室町時代戦国時代日本の歴史

織田信長亡き後の天下の行く末を暗示した「清洲会議」をわかりやすく解説!

清洲会議に集結した面々

では、清洲会議に参加した武将たちについて、簡単にご紹介しましょう。

まずは豊臣秀吉。当時は羽柴姓でしたが、ここでは豊臣秀吉で統一します。

低い身分から頭角を現し、信長に気に入られて多くの戦に参加し、目覚ましい功績を挙げていました。山崎の戦いで明智光秀を破った功績は、大きくモノを言うことになります。

柴田勝家は、織田家の筆頭家老という立場で、いわば政権のナンバー2でした。しかし、本能寺の変が起きたときは北陸地方で上杉氏と戦っており、戻ってくることができなかったのです。秀吉との差が縮まっていました。

丹羽長秀は信長の古参の家臣で、長年裏方的な立場で政権を支えてきました。信長からは「米五郎左(こめごろうざ)」と呼ばれ、毎日食べる米のように欠かせない人物だとして、絶大な信頼を寄せられていました。

そして、池田恒興は信長の乳兄弟で、小姓時代から長く彼のそばにいた人物です。勇猛な武将でした。

清洲会議で話し合われた議題

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清洲城に集まった豊臣秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興らは、信長の後継者問題領地再配分について話し合います。これが清洲会議です。信長の息子や孫など候補は多く、重臣たちの意見は分かれます。しかし、信長の仇を討った秀吉の発言力は増していたのです。ここでは、清洲会議の推移を見ていきましょう。

議題その1:信長後継問題

清洲会議でまず話し合われたのは、信長の後継者問題でした。

信長はすでに家督を嫡子の信忠に譲っていましたが、信忠もすでに亡くなっています。後継者として候補となったのは、信長の二男・信雄(のぶかつ)、三男・信孝(のぶたか)、そして信長の孫であり信忠の息子である三法師(さんぼうし)でした。

信雄と信孝はすでに「自分こそが跡継ぎだ」と言い合って反目していました。信雄は信忠と母を同じくしており、この母・生駒吉乃(いこまきつの)は、側室ながらも正室同様の扱いを受けた、信長最愛の女性でした。しかし、信雄自身は武将としての才能はいまいちで、戦で失態も多く、信長を激怒させることもたびたびだったのです。

一方、信孝は、母は側室ながらも、勇猛で信長をほうふつとさせる武将でした。そのため、家臣たちからの評価も高く、柴田勝家は彼の元服時の烏帽子親(えぼしおや/元服の儀式の際に、仮親となって烏帽子をかぶせる役)でもあったため、その支持も得ていました。

結論は三法師

この2人が争う中、4人の重臣たちは話し合いを続けていました。結局、結論としては三法師が後継となったのですが、ここに至るまでに、柴田勝家が信孝を推した一方で、秀吉が三法師を強く推薦して対立したものの、丹羽長秀と池田恒興が秀吉の意見に賛成したため、このような結果になったという話も伝わっています。

こうして重臣たちが三法師に後継を決めたことで、信雄と信孝もそれを了承し、三法師の後見役をつとめることを承諾したのでした。そして、彼らを重臣たちが補佐するという形で、一応、新たな政権の船出という形となったのです。

議題その2:領地の分配について

信長と信忠、そして明智光秀がいなくなったため、その分の領地は宙に浮きました。それを含めて、重臣たちの間で領地の再配分をしようということになったのです。重臣たちのおのおのが大なり小なり領地を増やしたのですが、中でも、主君の仇討ちを果たした秀吉の増加分は他を凌駕していました。しかも、彼が得た場所は河内(かわち/大阪府東部)や山城(やましろ/京都府南部)という日本の要衝だったのです。秀吉の力が頭一つ飛び抜けることとなりました。

そのためか、秀吉はそれまでの拠点・長浜城(ながはまじょう/滋賀県長浜市)を勝家に譲ったり、信長の妹で未亡人となっていた絶世の美女・お市との婚姻を勝家に斡旋したりするなど、勝家に対しては配慮する姿勢を見せています。

また、徳川家康から、信長の死後支配権が揺らいだ旧武田領に侵攻する許可が欲しいという頼みがあったため、この会議で了承されました。しかし、関東方面の司令官をつとめ、この場に不在だった滝川一益(たきがわかずます)にとっては、自分の領地が減ることとなり、非常に不満だったようです。彼は代わりの領地を求めますが、すでに会議で再配分は決まってしまっており、何もひっくり返すことはでず、一益は不満を募らせることとなりました。

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