平安時代日本の歴史鎌倉時代

随筆「方丈記」と筆者「鴨長明」を元予備校講師がわかりやすく解説

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。鴨長明が書いた「方丈記」の冒頭文です。高校時代に古典の授業で習った方も多いでしょう。鴨長明が生きた平安末期から鎌倉初期は、まさに「末法」の世といってもよいほど世の中が乱れていました。動乱の時代に生きた鴨長明の生涯と「方丈記」の有名な部分3か所について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

方丈記が書かれたころの日本

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12世紀後半、政治の主導権を握った元天皇である上皇は、朝廷とは別に院庁を開き法に縛られない政治である院政を展開します。強大な力を持った上皇と強く結びつき勢力を増したのが平清盛を筆頭とする伊勢平氏でした。「平氏にあらずんば人にあらず」とさえ言われた平氏を源頼朝が打倒したのが治承寿永の乱です。鴨長明が生きた日本史上、屈指の動乱時代についてまとめます。

上皇たちによる院政

11世紀前半、政治の実権は摂政・関白の地位を独占していた藤原家にありました。1068年に即位した後三条天皇は藤原氏を外戚としない天皇です。そのため、藤原氏を摂政関白とせず、荘園整理令を実行して藤原氏に打撃を与えました。

1073年に即位した白河天皇は1086年に堀河天皇に譲位。自らは上皇として政治の実権を握ります。白河上皇は天皇の父であり、天皇家の家長として藤原氏をはるかにしのぐ力をふるい、政治を行いました。白河上皇はサイコロの目と鴨川の水、比叡山の僧兵たち以外はすべて思い通りにできたと評されるほどの権力を握ります。

白河天皇が作り上げた院政のシステムは、鳥羽上皇後白河上皇に引き継がれました。最高権力者として法にとらわれない支配を行った上皇のことを特に治天の君とよびます。

平清盛を中心とした平氏政権

白河上皇から治天の君の座を受け継ぎ、絶対的な力をふるったのが鳥羽上皇です。鳥羽上皇は伊勢平氏の平忠盛を重用しました。

やがて、鳥羽上皇が亡くなると鳥羽上皇の子である崇徳上皇後白河天皇が政治の主導権をめぐって激しく対立。ついには武力衝突しました。この争いを保元の乱といいます。保元の乱で後白河天皇側について活躍したのが平清盛源義朝でした。保元の乱は後白河天皇側の勝利に終わります。

後白河天皇が上皇となり院政を開始すると、後白河上皇の側近の中で争いが起きました。この争いを平治の乱といいます。平治の乱で源義朝らに勝利したのが平清盛でした。平治の乱で最大の功績をあげた平清盛の力は後白河上皇を凌ぐものとなります。

後白河上皇の側近たちは清盛を排除するため鹿ケ谷で陰謀を巡らしますが発覚。首謀者は遠島とされました。

源平の戦いとなった治承寿永の乱

1179年、後白河法皇(出家した上皇)との対立が決定的となった平清盛は、後白河法皇を幽閉します。同年4月、後白河法皇の子の一人である以仁王が挙兵。全国に平氏打倒の命令書(令旨)を発しました。

以仁王の令旨に応じて北陸の木曽義仲、関東の源頼朝らが挙兵します。平清盛は挙兵した源氏を討伐するよう命じますが、1181年、高熱を発する病によってこの世を去りました。棟梁を失った平氏は混乱します。

1183年に平氏と木曽義仲は俱利伽羅峠で戦いますが木曽義仲が勝利。平氏は安徳天皇を奉じて西国へと落ち延びました。都に入ってきた木曽義仲配下の兵は京都近郊で略奪を行います。

義仲の配下による乱暴狼藉に手を焼いた後白河法皇は源頼朝に木曽義仲を追討させました。この時活躍したのが源義経。義経はそのまま西国の平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼします。その後、頼朝は義経と対立。義経追討と並行して鎌倉幕府を樹立します。

方丈記の著者、鴨長明

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方丈記を書いた鴨長明は下鴨神社の禰宜の家に生まれます。父がなっていた禰宜の職に就こうとしましたが、早くに父を亡くしたため禰宜になることができません。何度か禰宜になろうと運動しますがいずれも失敗。出家して隠居生活を送ります。隠居生活の中で生まれた文学作品が「方丈記」でした。

鴨長明の生い立ち

鴨長明は1155年に下鴨神社の禰宜の家に生まれました。父は鴨長継です。下鴨神社は京都にある数ある神社の中でも最も古い部類の神社。伝説によると、神武天皇時代に下鴨神社の祭神が地上に降臨したといわれます。

奈良時代に鴨神社は上鴨神社と下鴨神社に分離されました。皇室から皇女が斎王として奉仕する格式高い神社であるため、長明も下鴨神社のトップである禰宜になりたいと希望します。

6歳のころ、長明は早くも従五位下に叙され、順風満帆に育つかに思われました。しかし、1172年頃、長明のうしろだてとなっていた父の長継が死去します。

長明はまだ若かったので、下鴨神社の禰宜の職は一族の鴨祐季が担いました。鴨祐季が比叡山延暦寺との土地をめぐる争いで失脚すると、長明は後任の禰宜になろうと積極的に運動。しかし、鴨祐兼に敗れ禰宜職になる機会を活かせませんでした

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