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戦後日本の政治の原則「55年体制」はどんな体制?わかりやすく解説

太平洋戦争が終結して民主主義国家として新しい道を歩み始めることになった日本。 そんな日本にて政権をほとんどの期間を握っていたのが自由民主党でした。 そしてこの自由民主党が原則として与党となっていた時代は55年体制として安定した政権運営を行っていました。 今回はそんな55年体制について見ていきたいと思います。

55年体制って何?

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55年体制とは日本において与党第1党は自由民主党が占め政権を維持し、野党第1党は日本社会党が占めていた体制のことをさします。1955年にこの構図が成立し、政治学者の升味準之輔が1964年に発表した論文が名前の由来となりました。

55年体制は55年に左派・右派社会党の統一自由党と民主党の合併が行われた1955年から非自民党内閣であった細川護熙内閣まで続けられました。

55年体制の特徴

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55年体制の特徴は

1.自由民主党の絶対的優位

2.保革勢力の均衡状態

3.中選挙区制度

の三つにあると思います。果たしてこの55年体制はどのような形で日本を動かしていたのでしょうか?

自由民主党の絶対的優位

55年体制の特徴といえばなんといっても自由民主党の絶対的優位にあるところです。基本的にアメリカやイギリスでは二大政党制という55年体制と似ている政治体制を敷いているのですがこの55年体制では二大政党制みたいにコロコロと野党と与党が変わることがありません。

そのかわり普通に自由民主党が野党として議席の過半数を取っており、その次点で社会党が野党第一党として君臨しているというのが昭和時代の政治体制と言えるのです。

ちなみに、自由民主党が野党に転落したのはわずか2回。ここまで優位だともっと野党には頑張って欲しいものなんですけどね。

保革勢力の均衡状態

もう一つの特徴が自由民主党が圧倒的な優位にはあるものの、革新勢力がある程度の勢力を保持しているところにあると思います。革新勢力は日本で言うと社会党。今では立憲民主党が革新勢力として存在していますが、この社会党は基本的には自由民主党の政策に反抗する形で存在していました。要するに反自民の受け皿として機能していたと言うわけなんですね。

そのため社会党が政権をとることはないんだけど、自民党の一番のミソである改憲勢力の3分の2は取れていないと言う状態がかなり続きました。そのため社会党はある程度の勢力を持っており、自民党は一番の重要議題である改憲という議題を持ち出すことができないというわけなんです。この状態は国会の議席数が自由民主党と日本社会党で2:1であったため、「一と二分の一政党制」とも呼ばれています。

中選挙区制による議席の安定

他にも55年体制の特徴としてこの当時の選挙制度であった中選挙区制もありました。

中選挙区制というのは簡単に言うと小選挙区制と大選挙区制を足して2で割ったようなもの。中途半端といえば中途半端ですが、昭和の時代には日本の選挙体制はこれで通っていたのです。(ちなみに、これは革新勢力が自民党がほとんどの議席を取らないようにするための対策)

中選挙区制では全国を約130ぐらいの区に分けて、1つにつき2、3人を当選させるもので国民の意見をよりよく取り入れる効率的な選挙方法として重宝されていましたが、こうすることによって一位と二位が得をする選挙となってしまうことになります。

例えばとある選挙区では3人当選するとすると自民党と社会党とその他の党がそれぞれ候補者を立てたとしても最終的には勢力のある自民党とその次に勢力がある社会党の立候補者が当選しやすくなると言うのは当たり前といえば当たり前。

2人が自民党の立候補者、残りの1人が社会党の立候補者という形になりやすく単純計算で言えば3分の2が自民党となり、3分の1が社会党になっていったのです。もちろん選挙区ごとには社会党が圧倒的有利なところもあれば自民党が圧倒的有利なところもありますし、さらには他の第三党が有利なところもあるため一概にはそう言えませんが、このような形となっていったため結局自民党がある程度の議席数が取れてしまうことは分かりきったことだとなってしまい、この結果、社会党は政権を握ろうとはせずにせめて改憲勢力となる3分の1で抑える動きとなっていったのでした。

55年体制ができた背景

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55年体制が確立した裏には戦後すぐの日本が革新勢力と保守勢力に二分されており、それぞれの立場である程度の勢力を確立していこうという思惑が潜んでいました。

右派左派社会党の成立と統一

1945年に日本が太平洋戦争に敗戦すると日本はGHQによる占領が始まることになります。

占領下の日本ではGHQの指令によってこれまで日本の体制に反しているとして非合法化となっていた日本社会党や日本共産党といったいわゆる無産政党が合法化されることになりました。

そんな中革新政党として勢力を拡大していいたのが革新勢力として55年体制の一翼を担うことになる日本社会党だったのです。

日本社会党は1947年の総選挙で一躍与党に躍り出ることになり社会党を軸とする片山政権が誕生するなど日本の政治を大きく変える一つのきっかけに。

国家公務員法の制定、労働省の設置、民法・刑法改正など日本に社会民主主義が広まっていく地盤ができると予感されていたのですが、あまりにも急進的すぎる政策だったため片山内閣は総辞職。さらにその直後に昭和電工疑獄事件が起こったことによって社会党の支持は急速に衰えはじめることになります。

さらに1951年のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約に対する態度の違いから日本社会党は右派と左派に分裂。革新勢力は一気に衰退していくことになったのでした。

しかしこれではまずいと思った各政党は「護憲と反安保」を掲げて1955年に社会党再統一。革新勢力の統一がなされたのでした。

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