清洲会議後の勢力図
清洲会議の後、ますます存在感を強めた秀吉は、丹羽長秀や池田恒興など、かつての信長の重臣たちを次々と味方につけ、自身の陣営を築き上げていきます。一方、それに危機感を覚えた信孝と勝家は連合し、秀吉との直接対決へと突入していくのです。では、清洲会議の後の情勢を見ていきましょう。
秀吉と勝家の対立が鮮明化
清洲会議の後、秀吉の力は明らかに柴田勝家を上回るようになりました。重臣たちの筆頭的立場はすでに秀吉のもので、これまでのパワーバランスは一新されたのです。
そして、秀吉は、三法師の傅役(ふやく/お守役)である堀秀政(ほりひでまさ)や丹羽長秀、池田恒興らを抱き込みます。これに危機感を抱いたのが織田信孝で、彼は秀吉と意見の合わない勝家と連合し、そこに滝川一益も加わって、反秀吉陣営が形成されました。
対立から賤ヶ岳の戦いへ突入
清洲会議から約4ヶ月後、まず勝家が、秀吉が我が物顔に政権運営を行い、まるで天下を取ったかのように行動しているとして、諸大名に弾劾状を送りました。その一方、秀吉は信長の葬儀を大々的に行い、自ら喪主となって後継者であるかのように振る舞います。
そして、信孝が後見役という名目で三法師を岐阜城に置いたまま放さないでいることを口実に、信孝が勝家と謀反を企んでいるという理由をつけ、清洲会議の決定を取り消し、信雄を家督に据えると決定したのです。
これで信孝・勝家と、秀吉の対立は決定的となりました。そして翌年、両者は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで激突。秀吉の勝利となり、信孝は捕らわれた後に切腹、勝家は落城と共に自害を遂げます。そしてこの戦いが、秀吉が天下人への階段を駆け上がる大きなきっかけとなったのでした。
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すでに秀吉が天下人となることは決まっていた?
清洲会議のメインの目的は、織田信長の後継者を決めることでした。しかし、結果として、決められた後継者は有名無実化し、豊臣秀吉がその路線を継承することになります。思えば非常に巧妙なやり方で、秀吉は天下取りを開始したわけですね。すでにこの時、秀吉が天下人となることは決まっていたかのように思われます。