安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

唯一無二の戦略眼を持つ「真田昌幸」表裏比興の者と称された武将は人生をどう生きた?

知謀の持ち主だった「真田昌幸」は、武田家滅亡の後に領土領民を守るために周囲の諸勢力を渡り歩き、「表裏比興の者(くわせもの)」と恐れられた人物です。今回は、「真田昌幸」の65年の生涯をひも解いてみたいと思います。

1.知謀家「真田昌幸」の幼少期

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真田昌幸(さなだまさゆき)は、優れた知力を発揮し小大名ながら天下に名を轟かせた真田一族の二代目です。武田信玄(たけだしんげん)のもとへ人質に出されるも、信玄に「我が眼の如し」と信頼される若者に成長し比類ない出世を果たします。

1-1「表裏比興の者」と称された真田昌幸の誕生

真田昌幸は、真田弾正中幸隆(さなだだんしょうちゅうゆきたか)の三男として、天文16(1547)年に誕生しました。真田初代というべき幸隆の出自ははっきりしていません。昌幸の生母は河原隆正の妹の恭雲院。幼名は分かっていませんが、仮名は源五郎(げんごろう)です。7歳の時に武田信玄のもとに人質に出され、幸隆は信玄から秋和(現:長野県上田市)350貫文を貰っています。

1-2父はなぜ昌幸を武田家へ人質に出した?

幸隆は信玄の父信虎(のぶとら)に、自領を追われ苦渋を味わわされました。天文10(1541)年6月に信玄を擁立した家臣の反乱により、信虎は駿府へ追放されます。これを機に信玄に随従した幸隆は、信玄の宿敵「村上義清(むらかみよしきよ)」の難攻不落の戸石城を1日にして占拠し、武田から逃れた村上は上杉謙信のもとへ亡命しました。

武田家からご褒美に貰った秋和は、旧村上領を攻略するための要の地で、昌幸が人質となった時期と重なっています。武田が村上を攻略したことで、本領真田郷を回復できたのは間違いありません。

1-3人質だけど出世街道まっしぐら

人を見る眼力のある6人を信玄の身辺の世話をする奥近習衆(おくきんじゅうしゅう)に置き、昌幸はその中のひとりに選ばれます。他国衆出身の上に最少年でしたが、信玄の確かな鑑識眼と寵愛により大抜擢されたのです

「嘘をつく人間か?人によって態度が変わるか?人の嫌がる仕事ができるか?」などいくつかの注文を出し、古参や新参に関係なく家来の人間性を観察し長所短所を報告する役目を昌幸も担っています。

他国からの牢人衆が士官を願い訪れたときに、昌幸と曽根、三枝の3人が先ず面談をするほど信頼も得ていたのです。牢人の人物評価を信玄が命じた理由のひとつには、「私心」がなかったからだとか。

ちょっと雑学

奥近習衆の慧眼が、どれだけ鋭かったかをお話します。夏の暑い日の事。信玄の寵愛を受けていた金丸正直を、落合彦助が喧嘩の末殺害。逃亡したことで激怒した信玄は、上意討ちを牢人2人に命じました。首桶を持参した牢人に褒美を取らそうとするも、「腐った首では落合とは判別できない。」と家臣に諭されます。

「昌幸らが悪口する牢人の事は信じられない。」と家臣が感じたからだとか。川中島の決戦で、上杉軍の中に落合彦助がおり、名乗ったことで牢人の嘘がばれ2人は決戦場から夜逃げしました。

1-4外様では異例の大出世

15歳の昌幸は、元服し源五郎から昌幸と改名。永禄4(1561)年9月に、越後の上杉謙信と信玄が、激戦を繰り広げた「第四次川中島の戦い」で初陣を飾ります。

昌幸は本陣で信玄の命を守る役目でした。謙信が陣の中まで攻め込み信玄が襲われます。謙信の馬の尻を槍で刺し退却させたとき、信玄は「そなたに命を救われた!」と褒めました

信玄の命を救った昌幸は、一段と出世をします。信玄の生母大井夫人の弟が甲斐の名家武藤家当主の武藤三河守(むとうみかわのかみ)で、嫡子がいなかったため養子になったのです。ここから「武藤喜兵衛(むとうきへえ)」と名乗ります。外様で人質だった昌幸が、信玄の親戚筋の養子となるなんて前代未聞の話でした

2.真田家の当主となる

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武田家の親類関係になった昌幸ですが、波乱万丈の人生は続きます。信玄が死に、後継ぎの勝頼が倒され武田家が滅亡しました。昌幸は長篠の戦で2人の兄を亡くし真田に戻ったのです。小大名が諸勢力を渡り歩き秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれた昌幸の活躍ぶりを見てみましょう。

2-1出世街道を走り続ける昌幸

戦国時代の真っただ中にあり陣取り合戦が過熱する中、次第に頭角を現し、武田氏の奉行人衆に列するまで出世しました。足軽大将に任ぜられる、大出世も果たします。足軽大将初戦は、山しかない甲斐の領主だった信玄が海も欲しいと挑んだ「駿河今川氏攻め」です。

昌幸は騎馬15騎・足軽30人を預かり活躍した、永禄12 (1569)年10月の「三増峠の合戦」では、御検使として馬場隊に到着するやいなや北条軍が攻撃をはじめるも一番鑓(いちばんやり)を成し遂げます。永禄13(1570)年1月の「駿河花沢城攻防戦」でも二番鑓の戦功をあげました。

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