日本の歴史江戸時代

「鎖国政策」がキーワード…江戸時代の世界情勢を解説!

江戸時代。その時代を通して、日本は「鎖国政策」を取っていました。日本は基本的に外国とのお付き合いをしていなかったのです。しかし、それはそもそもなぜでしょうか?そして、その間に世界、特に西洋諸国は何をしていたのでしょうか。ここでは、「鎖国政策」をテーマに、江戸時代の日本と世界についてお伝えしていきます。

江戸時代の日本について

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まずは、江戸時代の日本についておさらいをしていきます。鎖国政策を取った日本。なぜ鎖国をしたのでしょうか。そして、その後の影響はどうなったのでしょうか?

1.なぜ鎖国をしたのか

まず、「なぜ鎖国をしたのか」についてですが、実はこれは「キリスト教」が深く関わっています。つまり、江戸幕府(徳川家)の政権は、意味もなく国を閉じたかったわけではなく、キリスト教徒やキリシタン大名を統制し、日本から追い出したかった…それゆえ「鎖国政策」を取ったのです。特に徳川家康は、「三浦按針」という英国人を外交顧問に迎えました。ともすれば閉鎖的なイメージがある家康も、実は通商に関しては推進の立場であり、大名や商人に許可状を与えたりといったこともしています(ちなみに鎖国政策が完成するのは3代将軍・家光の頃)。

要は、キリスト教が絡まなければ、通商もOKでした。その証拠のひとつが、長崎にある「出島」です。そう、オランダ人がいた場所ですね。なぜオランダだけが通商を許されたのかと言えば、当時キリスト教を通じて勢力拡大を図っていたスペインやポルトガルと対立していたためです。また幕府は、オランダ人からは「風説書」として世界情勢を仕入れましたし、やはりキリスト教と関連性がない中国にも通商を認めました。

鎖国には「宗教」が密接に絡んでいたのですね。

2.国を閉じたことの意味

国を閉じたことで(一部を除く)、確かに日本からキリスト教徒はほとんどいなくなりました。その意味では、鎖国政策は成功したと言えると思います。一方で、別の「副作用」を生じさせることにもなりました。

鎖国をしてしまったがために、世界の趨勢…とりわけ西洋の急速な発展の趨勢からは取り残されてしまったのです。やがて1853年、アメリカのペリー提督が大統領の親書を持って浦賀に来航をしますが、幕政は混乱。結局、開国をし海防を強化するものの、これは「遅すぎた開国」と言えなくもありません。

江戸時代に激動した世界情勢

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さて、その一方で世界はと言えば、日本が鎖国を続けている間、西洋を中心に大きな転換期を迎えていました。今度はその西洋にスポットを当ててみたいと思います。

1.産業革命

江戸時代に世界で起こったことのまず一点目は、「産業革命」になります。この世界的な流れは、イギリスから始まりました。蒸気機関の開発、石炭の利用、工場の発達などによって近代資本主義社会が確立されたのです。これにより、農業社会から工業化社会へと時代が大きく移り変わることになります。人々の生活様式が一変してしまうような「近代」が、既に始まっていました。

一方で、その頃の日本には、まだ「近代」は始まっておらず、武士による封建社会が続いていました。ここに、西洋とは対照的に、のんびりした日本人像が浮かび上がってきます。やがて幕末・明治になり、日本も近代化へと突き進むことにはなりますが…。

2.市民革命

江戸時代に世界で起こったものの2つ目、それは「市民革命」です。代表的なものと言えばフランス革命でしょう。1789年、それまでの封建的な政治体制への不満が爆発、革命が起こりました。また、海を隔てたアメリカでも独立革命が起こります。

産業革命が「経済」における革命なら、市民革命は「政治」における革命。このことによって、「市民」という概念が誕生し、市民の政治的な権利が保障されるに至るのです。日本に同様の「革命」が起こるまでには、明治維新を待たなければなりません。

3.植民地

そして最後は「植民地」です。産業革命で高度な技術や軍事力を得たイギリスは、アジアやアフリカといった地域における原料や市場の供給地を求めて植民地獲得を進めました。そして、フランスなど他の西洋諸国もそれに対抗するかたちで、やがて植民地獲得競争が始まることになります。

一方で、日本はその競争の「蚊帳の外」でした。しかしアメリカのペリーが来航することで、その競争に巻き込まれていかざるを得なくなります。

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