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かつてあった北の大国「旧ソ連」とは?わかりやすく解説

ソ連の大粛清

しかし、スターリンの政策は止まることを知りせん。今度はスターリンに歯向かうものを次々と国によって殺害させる方針を取っていくことになります。これがいわゆる大粛清と呼ばれるソ連の悲劇です。1934年に穏健派と呼ばれていたセルゲイ・キーロフが暗殺されると粛清が激化。これまでソ連共産党を支えていた党員やトゥハチェフスキーといった軍の大物が次々と粛清。さらにはその配下やソ連には向かおうとする疑いをかけられた人たちが処刑、またはシベリアに流刑されて強制収容所で強制労働させられることとなりした。

これによってスターリンの基盤は大きく安定することになりますが、この大粛清の被害者はなんと100万人とも言われており、スターリンが死ぬでの間ソ連の国民はスターリンの粛清に怯えることとなるのでした。

ソ連の勢力拡大

スターリンが大粛清を敢行している頃、中欧のドイツではヒトラー率いるナチスドイツが急激に勢力を拡大していました。ヒトラーは昔からのソ連、そしてスラヴ民族嫌い。いつかはドイツと戦争することは確定とみなしても良いものだったのです。

スターリンは1938年のドイツのオーストリア併合を見て英仏に対してドイツに対する強硬策を見せていくようにしてほしいという要望を提示していくことになります。しかし、その結果得られたのはドイツに対する宥和外交でした。イギリスとフランスはドイツよりもソ連を脅威と考えており、イギリスのチェンバレン首相はミュンヘン会談に見られるようになるべくヒトラーの要望に従う形を取っていったのです。

そこでスターリンはある奇策を思いつきます。それこそがドイツとの不可侵条約でした。

当時ドイツは旧領回復のためにポーランド侵攻を計画。フランスに攻められた時の抑えとしてソ連とことを構えることをなくすという利害が一致するという目論見のもとで独ソ不可侵条約が締結。

この独ソ不可侵条約ではポーランド東側のソ連の割譲とバルト三国の併合の黙認などが盛り込まれており、ソ連はそれをもとにしてドイツがポーランドに侵攻したときにはポーランド東側を占領。さらにバルト三国も併合しました。

こうしてソ連は西へ西へ勢力を拡大していましたが、ここでソ連の勢いをとまらせる事態が。なんとフィンランドに苦戦を強いられることになるのです。いわゆる冬戦争と呼ばれる戦争が起こりましたが、かろうじてソ連は勝利を収めます。

しかし、この冬戦争の敗北はソ連の軍備の弱体化を如実に表しており、このことは第二次世界大戦に深く影響を受けることになったのでした。

第二次世界大戦

ドイツとの独ソ不可侵条約によって東ヨーロッパで領土を拡大したソ連であったが、ドイツとの提携が続くとは考えられていませんでした。

そもそもヒトラーはソ連の領土を獲得してドイツ人による生存圏を広げていこうという主張をもとに動いていたため、いずれ独ソ戦が起こることはわかりきっていたことではあったのです。

ヒトラーがユーゴスラビアに侵攻し始めたときにソ連は国境に軍を集中するために日ソ中立条約を締結して兵力をヨーロッパ側に集中。ドイツとの決戦に挑み始めることになります。

しかし、ドイツが侵攻するスピードはソ連が想定していた時期よりもかなり早く、1941年6月にドイツは独ソ不可侵条約を破棄して一気にソ連に侵攻を開始。ソ連の首都であるモスクワ目掛けて一気に攻めはじめたのでした。

スターリンの目論見とは大きく外れることとなったこの開戦。スターリンはクーデターに怯えてしばらくの間姿を表すことがなかったほど衝撃的なことでもあったのです。

ドイツの軍勢はみるみるうちにドイツの領土を蹂躙。最終的にはレニングラードとスターリングラードを包囲してさらにはモスクワ目前にまで迫ることに。

しかし、スターリンはソ連の底力を信じてこの戦争を大祖国戦争と号してドイツに徹底抗戦を挑むことに。撤退する兵士を督戦隊で銃殺するなどの荒治療を行いながらソ連はスターリングラードの戦いで勝利。ここから一気にソ連の優位に変わっていくことになります。

ソ連はバグラチオン作戦と呼ばれるソ連の占領地域奪還を掲げた作戦を見事に成功させ独ソ戦の勝利は決定的なものに。

1945年にドイツの首都であるベルリンを陥落させて第二次世界大戦の戦勝国となったのでした。

この第二次世界大戦の勝利は2700万人という途方もない大損害を叩き出したものの、ソ連の国際的な地位を大きく向上することとなり、ソ連は占領した地域を衛星国としてソ連の陣地化に組み込んだのです。

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