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かつてあった北の大国「旧ソ連」とは?わかりやすく解説

アメリカとの冷戦

こうして戦争の勝者となったソ連でしたが、この急速な拡大がアメリカの敵対心を生み出すこととなります。アメリカの大統領であったトルーマンはソ連を封じ込めるためにトルーマンドクトリンを展開。東西ドイツを境に鉄のカーテンが敷かれることとなり、いわゆる冷戦と呼ばれる構造へと突入してしまったのです。

スターリンはアメリカの政策に次々と反抗。例えばアメリカが北大西洋条約機構(NATO)を結成したときにはソ連をはじめとした社会主義国家を中心としてワルシャワ条約機構を結成。

さらに1950年に朝鮮戦争が勃発するとソ連は直線戦争はしないものの、介入して自国に有利な政権を樹立するいわゆる代理戦争を起こしていくようになります。

スターリンはベルリンを閉鎖するなど強硬的な姿勢を見せていましたが、1953年にスターリンは死去。これまでソ連を動かしてきた男の死はソ連の政治を大きく変えることになるのです。

核開発と宇宙競争

こうして冷戦に突入したソ連。ソ連はアメリカとの冷戦をリードしようとアメリカに対抗するために様々な分野に乗り出していくことになります。その分野こそ核開発と宇宙分野でした。

核開発は文字通り核爆弾を作る技術のことで少しでも強い核爆弾そして水素爆弾を作ることによって攻められなくするといういわゆる核の傘を作るのに必須でした。

宇宙はアメリカを攻撃するのに非常に便利な分野として活用されていくことになります。今では日常生活に使っているGPS。これは元々軍のための技術でした。

つまりこの二つの分野は冷戦にとってはなくてはならない代物でもあったのです。

核分野ではアメリカが一歩リードする形で冷戦を迎えましたが、1949年にソ連が核実験を成功させるとその差は一気に縮まることとなり、ソ連とアメリカによる核開発競争がデットヒートの程を見せていくようになりました。ソ連は世界最大の水素爆弾ツァーリ・ボンバを開発するなど積極的に核開発を行いますが、のちのキューバ危機以降徐々に落ち着きを見せていくようになりました。

一方で宇宙分野はというと、ソ連は1957年に世界初の人工衛星であるスプートニク1号の打ち上げに成功。アメリカとの技術の差を見せつけることとなります。さらに11月にはそれに犬を載せたスプートニク2号の打ち上げを行い、1961年にはついに世界初の宇宙有人飛行に成功。ガガーリンが地球を周回し「地球は青かった」という名言を残します。

1963年には、ソ連は初の女性飛行士テレシコワを宇宙へ。名言である「私はカモメ」は有名ですね。(ちなみにかもめがコードネームだったからなんだそうです)。

まだまだ1965年にはレオーノフが宇宙遊泳を実施するなどアメリカを大きく引き離して宇宙開発に乗り出していきました。しかし、アメリカがアポロ11号にて月への有人着陸を達成するなど宇宙分野ではその差がほとんど見られなくなっていたのです。

フルシチョフの時代

1953年にスターリンが亡くなるとマレンコフが新しい書記長の座につきますが、わずか9日後に失脚。最終的にはフルシチョフがソ連の新しい指導者となりました。

フルシチョフは書記長となった瞬間にスターリンの業績を非難するいわゆるスターリン批判を行い、スターリンの個人崇拝をやめさせます。

しかし、東側諸国の勝手な動きは許さずにハンガリーで動乱が起こったときにはソ連軍が武力をもって鎮圧。しかし、この動きが当時まだスターリンを崇拝していた中華人民共和国の反発を招いてしまい、中ソ対立が一気に進行していくことになります。

さらには1962年にキューバ危機が起こってアメリカとの核戦争一歩手前に陥ってしまったときにはここからアメリカとの関係を改善していくいわゆるデタントの時代となっていくことに。これはこれまで緊張状態となっていた世界情勢を落ち着かせることに成功しましたが、これがソ連内での反発を招いてしまい、のちに失脚することになる一因ともなります。

ブレジネフの時代とソ連の停滞

image by PIXTA / 30797424

西側諸国にある程度譲歩するようになったフルシチョフは農業政策の失敗なども原因となってしまいソ連の不興を買ってしまうことに。その結果フルシチョフは1964年失脚することになりました。

フルシチョフの後を継いだブレジネフはこの西側諸国の譲歩をやめるようにするのですが、この時のソ連はだいぶ危機にさらされることになります。

例えば中ソ対立が激化していき、最終的にはほとんど国交断絶と同じようになっていた中華人民共和国は1970年代にソ連の最大の敵であったアメリカと国交を正常化。ソ連と国境を接している国家がソ連と敵対している国家と国交を結んでいきソ連は危機感を抱いていくようになったのです。

そこでブレジネフが目をつけたのは実質的なソ連の支配下に置かれていた東欧諸国でした。

ブレジネフは主権をある程度制限することは社会主義を防衛するためには仕方のないという「制限主権論」を使ってチェコスロバキアの民主的改革(プラハの春)に対して軍事介入。

これは西側諸国からの怒りを買うことになり、ソ連は慌ててアメリカとの関係回復に動いていくようになります。これをデタントというようになりますが、このプラハの春によってルーマニアやアルバニアやユーゴスラビアは次々とソ連批判を行いはじめていき、西側諸国の共産党も次々と崩壊していくことになりました。

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