教養歴史

実は悲劇の哲学者?4つのエピソードでみる「本当のニーチェ」

高校の倫理の教科書に必ず出てくる哲学者・ニーチェ。本屋さんに行けばビジネス書棚で見つかるニーチェ。世界史に出てくる有名人というのは知っているけど、その好奇心の先に立ちはだかるのが、やはり「難解な哲学者」のイメージ。どんな立派な人なんだろう?と思いますよね。そんなニーチェですが、実は波瀾万丈な人生を送った人でもあります。なかには、恥ずかしいエピソードも。ここでは、ニーチェその人にスポットを当て、その足跡を追います。

まずは簡単におさらい!ニーチェの哲学・思想ってどんなもの?

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本題に入る前に、そもそもニーチェってどんな思想を持っていたっけ?というところから軽くおさらいしてみたいと思います。

ニーチェは、それまでのキリスト教の道徳観を否定し、「神」に依存する生き方を否定したという点で、今までにない哲学者でした。ここでは、いくつかのキーワードからニーチェの思想を探ります。

【キーワード1】相対主義

ニーチェを語るうえで欠かせないのがこの考え方。つまり、この世界には絶対的なものがない、という相対主義です。今でこそ、「正解のない問い」というものが当たり前の概念になりつつありますが、当時の西洋では、「絶対的な正解」や「絶対的な善」がこの世には存在すると考えられていました。

絶対的な正しさなどは存在しない。ただそれぞれの「正しさ」を主張する人がいるのみである…まずこれが、ニーチェが主張したことでした。

【キーワード2】ニヒリズム

しかし、相対主義を突き詰めると、「ああ、世の中のすべてのことは全部無意味なんだ」という考え方に行きついてしまいますよね。これが「ニヒリズム(虚無主義)」と言われる状態です。

ニーチェは、これに対して異を唱えるんですね。ニヒリズムに陥るなと。確かに絶対的な正しさなんて世界のどこにもないけど、その無意味な世界こそ、人間が何にも依存せずに生きられる素晴らしい世界ではないかと。ニーチェはそんな生き方ができる人間を「超人」と呼びました。

【キーワード3】永劫回帰

この「永劫回帰(えいごうかいき)」がニーチェの思想で最も難しいところだと言われています。ざっくり言ってしまえば、この世界はスタートもなくゴールもない、ということです。今までのキリスト教の世界観では、天国というゴールに着くために生きることが当たり前だと考えられていました。しかし、ニーチェはそれを否定します。

この世界には天国などない…つまりゴールがない無限の世界。その世界を「超人」として生き抜こうではないか…そうニーチェは考えたのです。

ニーチェの知られざる過去とは?残したのは強烈な思想だけではなかった!

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このような思想を残したニーチェ。しかし彼は生前、ほとんど無名でした。死後になって評価が急激に高まったという点では、宮澤賢治(童話作家)のイメージに近いと思います。

さて、ここからは、彼の人生にスポットを当てましょう。ニーチェは、その気高い思想とは裏腹に、悲しいエピソードを多く残しました。いったいどんな人物だったのでしょうか。

【エピソード・その1】キリスト教の信仰を放棄し、母親と大ゲンカ!

ニーチェは1844年、プロイセン王国(現在のドイツ)にある小さな村で生まれました。父はキリスト教の牧師で、裕福な家。ニーチェは何不自由なく少年時代を過ごしたことでしょう。成績も優秀で、当時プロイセンで屈指の名門校だったプフォルタ学院に進学しています。

両親からすれば、自慢の息子だったかもしれません。両親としては、将来は立派な牧師に…と淡い未来予想図を描いていたかもしれませんが、そうはいかないのがニーチェ。思想的な影響によって、なんと大学時代にキリスト教の信仰をあっけなく放棄してしまいます(もっとも、だからこそニーチェは有名な哲学者になったのですが…)。

しかしこれを知った母親は激怒! 大ゲンカへと発展しました。とはいえ、結局ニーチェが二度とキリスト教を信仰することはありませんでした。

【エピソード・その2】有名音楽家と親友になるも、失望して破局

キリスト教からいわば「ドロップアウト」したニーチェ。しかし、彼の尖った才能は一部の人々には魅力的に映ったようです。当時、ヨーロッパで名声を得ていた音楽家・ワーグナーもそのひとり。ニーチェとワーグナーは共鳴し合い、例えばニーチェがワーグナー宅を訪問した回数が23回に及んだことがわかっています。

しかし、この親交も長くは続きませんでした。最後はニーチェがワーグナーに失望するというかたちで、関係は終了。この理由がなかなか哲学者らしく、「ワーグナーが、芸術至上主義から俗的なブルジョアに染まった」というもの。ニーチェからすれば、ワーグナーの純粋な芸術への想いに尊敬の念を抱いていたものの、彼への期待値が上がり過ぎてしまったのか、名声を得て悦に入る姿はその理想像とはかけ離れたものだったのかもしれません。自らの思想と折り合いがつかなくなった人との交流は耐え難かったのでしょうね。

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