イギリスヨーロッパの歴史

中東混迷の原因を作った「バルフォア宣言」イギリスの3枚舌外交を元予備校講師がわかりやすく解説

第一次世界大戦中、イギリスはオスマン帝国の後方をかく乱し中東地域を連合国の影響下に取り込もうと、様々な秘密外交を展開しました。イギリスはアラブ人、ユダヤ人、列強であるフランスやロシアと相互に矛盾する内容の3つの秘密外交を進めます。その結果、中東地域の混迷は深まり、現在の中東紛争の原因を作り出しました。今回は、イギリスが行った三枚舌外交と「バルフォア宣言」に注目し、背景・内容・その後の中東地域などについて元予備校講師が分かりやすく解説します。

バルフォア宣言の背景

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1914年に起きた第一次世界大戦は、ヨーロッパだけではなく世界各地を戦火に巻き込む大戦争となりました。戦争当事者となった欧米列強国は国の持てるすべての力を戦争に振り向ける総力戦体制を作ります。イギリスを中心とする連合国軍は同盟国側の一国であるオスマン帝国を打倒するため、大兵力をトルコ本国に差し向けました。しかし、トルコ軍の決死の防戦の前に、連合国軍は撤退を余儀なくされます。

第一次世界大戦の始まり

1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナントがセルビア人の手によって暗殺されるサライェヴォ事件が起きました。オーストリアはセルビアに強い圧力をかけます。

セルビアは同盟国であるロシアの力を頼りとし、オーストリアの圧力を拒否。すると、オーストリアはセルビアに宣戦布告。ロシアはセルビア支援のために動員令を布告しました。この動きにドイツが呼応。

ついには、ロシアの同盟国であるイギリス・フランスも参戦します。オーストリアとセルビアの争いが発端となり、第一次世界大戦がはじまりました。

戦争勃発後、イギリスと日英同盟を結んでいた日本はドイツに宣戦布告。戦いはアジア地域にも飛び火します。一方、ヨーロッパと距離を置く孤立主義を掲げていたアメリカは第一次世界大戦に参戦しませんでした。

各国を苦しめた総力戦

第一次世界大戦がはじまった1914年の8月、参戦していた欧米列強は戦争が長期化するとは考えていませんでした。「クリスマスまでには戦争が終わる」と各国首脳は考えます。ところが、戦争は予想に反して長期化。開戦から2か月たった1914年10月にはフランスやドイツは平時備蓄分の戦争物資を使い切ってしまいました。

各国は銃弾・砲弾や兵士たちに必要な装備品や食料などを国ぐるみで増産します。国全体が戦争のために協力する総力戦体制へと各国は移行しました。

戦争の長期化と毒ガスや航空機、戦車などの新兵器の投入により犠牲者は爆発的に増加。1915年には、フランス・ドイツの戦死者が70万人に達したといいます。

また、男性が兵士として前線に駆り出された分、女性たちが不足する労働力を穴埋めしました。女性によるタクシー運転手や工場労働者の存在が当たり前のものになっていきます。

連合軍とオスマン帝国が戦ったガリポリの戦い

第一次世界大戦において、オスマン帝国はドイツ側に立って参戦しました。黒海と地中海を結ぶダーダネルス・ボスフォラス海峡が同盟国側によって支配されると、ロシアとイギリス・フランスの連携が絶たれてしまいます。

それを防ぐため、イギリスを主力とする連合軍はダーダネルス海峡の入口にあるガリポリ要塞の攻撃を開始しました。当時、オスマン帝国は「瀕死の病人」に例えられるほど国力は衰退。周辺諸国との戦争でも敗戦を重ねていました。連合軍はオスマン帝国を圧倒できると考えていたのかもしれません。

ところが、ガリポリ周辺の守備を担当したムスタファ=ケマルは連合軍の攻撃を再三にわたり食い止めます。そのうち、ブルガリア方面からオーストリア・ドイツの支援を得られる体制が整うと、連合軍は撤退を開始しました。

イギリスが行った3枚舌外交

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オスマン帝国本土の攻撃に失敗したイギリスは、オスマン帝国支配下にあった中東地域のアラブ人とユダヤ人に働きかけます。両民族に対し、中東地域での独立国家樹立と引き換えに反オスマン帝国闘争を繰り広げるよう求めました。その一方、フランスやロシアとはサイクス=ピコ協定を結び、戦後の中東地域を列強によって分割することを約束します。

フセイン(フサイン)・マクマホン協定

アラブ人の指導者であるフセインは、ムハンマド以来のハーシム家の血統を受け継ぐメッカの太守でした。フセインは「大アラブ国家」の建設を夢見て、オスマン帝国からの独立を画策します。

1915年、イギリスの高等弁務官マクマホンは密かにフセインと接触。フセインによるアラブ人国家建設の支援を約束しました。これが、フセイン・マクマホン協定です。1916年、フセインはヒジャーズ王国を建国しアラブの盟主たらんとしました。

フセインによるアラブの反乱を支援したイギリス人将校が「アラビアのロレンス」こと、イギリス軍情報将校のロレンスです。ロレンスはフセインの息子であるファイサルと共闘し、鉄道を爆破するなどオスマン帝国軍をかく乱。アラブ地域でのハーシム家の勢力拡大に貢献します。

サイクス・ピコ協定

1916年5月16日、イギリス・フランス・ロシアの三国首脳は、ひそかにロシアの首都ペトログラードに集まり大戦後のオスマン帝国領について取り決めを行いました。

イギリスはバグダード周辺を含むイラクとシリア南部を、フランスはシリア北部と小アジア島南部のキリキア地方を、ロシアはカフカス地方に接する小アジアの東部を分割占領すると定めます。

同時に、イェルサレム周辺のパレスチナ地域は国際管理地域とすることも定められました。協定の名前にあるサイクスはイギリスの代表、ピコはフランスの代表の名です。ロシア代表の名がないのは1917年にロシア帝国が革命によって崩壊したためでした。

新たに成立したソヴィエト連邦政府は秘密外交の廃止を打ち出し、ロシア帝国がイギリス・フランスと秘密裏に結んだサイクス・ピコ協定の内容を暴露します。

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