ヨーロッパの歴史

良くも悪くも歴史を変えた最恐の世界の悪妻と悪女9選

世界史において偉人や良妻賢母と呼ばれる人は沢山いますよね?挙げればきりがないのですが、世の中光があれば必ず影があります。そしてその偉人の影には必ず女性が付いていたのでした。そこで今回はそんな世界史の中でも特に世の中を混乱させた女性や偉人と結婚しのちに悪妻と呼ばれた人9人に対してスポットライトを当てていこうと思います!

#1クサンティッペ【西洋での悪妻の代表例】

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最初に紹介するのは悪妻は西洋で聞いたら真っ先に思い浮かぶ悪妻の代表例としても知られているクサンティッぺです。

この人はギリシア哲学の大偉人ソクラテスの妻なんですが、彼女の悪妻ぶりはとんでもなく、とにかく何か嫌なことがあればソクラテスに当たり散らしたらしく、さらにはソクラテスと喧嘩した際にはかめに入っていた水をソクラテスの頭にぶっかけて家から追い出すほどの仕打ちぶり。

これにはのちのプラトンの著書の中にも「クサンティッペは何もしないやばい妻」と書き記したほどだとか。

しかし、さすが哲学者ソクラテス。こんな悪妻を持ちながらもこのことを修行の一つだと思い、友人から離婚したらと言われた際には「この人とうまくやっていけるのであれば世の中の大体の人と仲良くなれる」と言い放ったほど。

ソクラテスは「いい妻をもてば幸せに暮らせる。悪妻を持てば哲学者になれる」という名言を残している通りあんな妻を持ったから哲学者として大成したのかも知れません。

 

#2コンスタンツェ【モーツァルトを早死にさせてしまった浪費妻】

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次にご紹介するのはオーストリアが生んだ偉大な作曲家であるモーツァルトの妻のコンスタンツェです。

コンスタンツェは伝記や色々な人の情報によるととんでもないぐらいの浪費家だったらしく、モーツァルトが書いた楽譜や書簡などを売り飛ばして豪遊三昧だったとか。そのため、モーツァルトはあんなに宮廷音楽家として大成していたにもかかわらずとんでもなく貧乏。その日の生活にも困るようになり挙げ句の果てには35歳の若さで亡くなってしまいます。

しかし、彼女の恐ろしい所はここから。コンスタンツェはモーツァルトが亡くなったことには全然興味なし。さらにはお金をかけたくないためさっさと葬儀だけ終わらせて適当なところに墓を作って埋めたともいわれていますそのためモーツァルトの墓は未だに見つかっておらず、さらにモーツァルトの遺産も全然残っていません。

経済概念がないとこのような仕打ちにあってしまうことを彼女は示してしまったのかも知れません。

#3ソフィア夫人【ロシアの文豪トルストイを家出させた超ヤンデレな妻】

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次にご紹介するのは『戦争と平和』などの本を執筆したロシアの文豪であり、この国の後の政治や社会に大きな影響を及ぼした偉人トルストイの妻であるソフィア夫人です。

さて、普通の夫婦であれば最期の時は妻に寄り添ってもらって死にたいと思ったりするのですが、なんとトルストイの場合だと妻に寄り添ってもらいたいと言うどころか、逆に「たのむから決して妻を近づけないでくれ」と最期に言ったと言われており、トルストイとソフィア夫人の間には埋めることができない深い溝があったと思われております。
「どうしてこんなに仲が悪くなってしまったのか?」そう思うかもしれませんがなにせソフィア夫人は超嫉妬深い今でいうところの超メンヘラ女だったからです。

彼女の残した日記には「私は、いつか嫉妬のために自殺するような気がする」「魅入られるようにナイフ・銃をながめた。一撃でおしまい。かんたんだ」と書き記すほどの超ヤンデレっぷり。今の人から見てもすごく恐ろしいです。

さらに、トルストイが他の女にちょっと心を寄せると「なんで夫は身と心を完全に私に委ねることができないのだ。妻の私はすっかり彼にささげているのに」と残す程。そりゃトルストイも妻に委ねることもできません。

ソフィア夫人はトルストイとの間に生まれた子どもは愛情込めてしっかりと母として育てていましたが、その愛情が逆にトルストイを締め付けることにつながってしまい、トルストイが死の直前に「妻を近づけないでくれ」と発言する結果につながっていったのだと思います。

#4日野富子【日本を戦国時代に仕立て上げた守銭奴】

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次に紹介するのは悪妻の日本代表とも言われている日野富子です。

日野富子の夫といえば足利幕府第8代将軍であり、慈照寺を建てて東山文化を大成させた足利義政ですが、実はこの夫婦。仲が悪いのか良かったのかは微妙なところですが、日野富子は足利義政が支持していた足利義視を将軍にすることに反対し、自身の息子義尚を将軍にしようと各大名に働きかけて最終的にはなんと応仁の乱を引き起こしてしまいました。

それだけでもなかなかやばい妻なんですが、彼女の凄いところはその応仁の乱が起こった後に気が狂ったかのようにお金を集めまくったところにあると思います。

日野富子は幕府の運営資金を集めるために京都の8つの入口に関所を設けてそこを通る民衆に対して関所の通行料を巻き上げていき、さらにその巻き上げたお金を応仁の乱における西軍と東軍にそれぞれ貸し与えてその利子で丸儲け。一説によると日野富子は応仁の乱の間で今の価値にして7億円も稼いだと言われています。

京都では応仁の乱が起こってしまい焼け野原になったのにもかかわらず将軍の妻であるのにお金儲けに走った日野富子は満を持して悪妻としてノミネート出来るレベルと私は思いますね。

#5則天武后【漢字大好きな中国史上唯一の女帝】

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次に紹介するのは中国の歴史の中で唯一の女帝となった則天武后です。

彼の夫は唐王朝第3代皇帝高宗。彼の父は貞観の治を広めて唐の最盛期を築き上げた太宗だったこともあって高宗はプレッシャーで押しつぶされてしまい、さらには眼病も患ってしまい政務が出来なくなってしまいました。

そんな時に出番だといきなり台頭し始めたのが彼の妻である則天武后でした。則天武后は高宗に代わって政治を行い始め、自身に反抗する派閥は丸ごと排除。さらに夫が死去すると傀儡の皇帝を立てて唐の実権を獲得。挙げ句の果てには690年に自ら皇帝に即位して周を建国。ついに唐を乗っ取ることに成功しました。

そんな則天武后ですが彼女の好きなものといえばなんといっても漢字でした。彼女は手当たり次第よく使う漢字を改称して自ら新しい漢字をどんどん作っていきました。この漢字のことを則天文字というのですが、実はこの則天文字は後の水戸黄門の本名である徳川光圀(圀が則天文字)もこの文字を使用していたとか。さてさて則天武后は皇帝として肝心の政務の方はなかなかうまかったらしく、長年の中国の課題であった高句麗の滅亡に成功してさらに中国大陸の安定化に尽力。有能な家臣をどんどんスカウトしていき周の政権を盤石なものとしました。

そんな則天武后ですが、やはり唐を簒奪した事実がある一方で、政務が上手かったこともありなかなか評価が分かれる悪妻となっています。

 

#6ジョセフィーヌ【ナポレオンが愛したけど浮気癖が強かった皇后】

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次に紹介するのはなかなか微妙な悪妻ジョセフィーヌです。ジョセフィーヌの夫はフランス第一帝政を創始して今でもフランスの英雄と称えられているナポレオン。

そんな彼女がどうして悪妻として紹介されたのかというとやはりこの人もかなりの浪費癖があったことだと思います。ジョセフィーヌはナポレオンと結婚する前に一度結婚していますが、その時の離婚理由が浪費家だったことらしく、さらに離婚後にはフランス総裁政府のトップの愛人となったとか。

そんなジョセフィーヌがなんでナポレオンと結婚したかというと純粋にナポレオンがジョセフィーヌのことが好きだったのです。

ジョセフィーヌはナポレオンと結婚した後、ナポレオンがエジプトやイタリアに遠征することになりますが、その時に彼女は服や宝石をどんどん購入。帰ってきたナポレオンはその請求者を見て「一体何人のジョセフィーヌがいるんだ」と苦笑いしたり、さらにはエジプト遠征をしている時には若い将校と浮気もしたりだとやりたい放題。

しかし、ナポレオンが皇帝につくとジョセフィーヌはナポレオンを支えることを決意。浪費癖と浮気癖をきっぱりやめて社交界を通じて妻としての役目を果たしました。

その後はナポレオンの政治的な理由で円満離婚をすることになってしまいましたが、離婚した後も夫婦共に仲が良かったらしく、ナポレオンがワーテルローの戦いで失脚した際にジョセフィーヌはナポレオンのことを気にかけながら「ナポレオン」と言い、ナポレオン自身も流されたセントヘレナ島で「ジョセフィーヌ」と呟きながらこの世を去ったと言われています。

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