ドイツナチスドイツ

軟弱な外交による悲劇「ミュンヘン会談」とは?わかりやすく解説!

政治において軟弱者は基本的に痛い目を見ることになります。例えば平和を望む外交をする時それと同時に相手になめられることも覚悟しなければいけません。 その最たる例が1938年9月に行われたミュンヘン会談だったのです。 今回はそんなミュンヘン会談について解説していきたいと思います。

そもそもミュンヘン会談って何?

image by PIXTA / 57857197

ミュンヘン会談とは1938年9月29日からドイツの都市ミュンヘンで行われたズデーテン地方の帰属をめぐる会議のことです。

ズデーテン地方は元々チェコスロバキアの領土でしたが、ドイツのと対決を望まないイギリス・チェンバレン首相による宥和外交によってズデーテン地方はドイツの領土となりました。

イギリスとフランスのビビりな対応

image by PIXTA / 43956116

今では「軟弱な外交はろくなことが起きない」の代表例としてよく持ち上げられることがあるミュンヘン会談。

しかし、イギリスとフランスがこのような軟弱な対応を行った理由にはとある事情があったのです。

まずは、イギリスとフランスの状況とミュンヘン会談以前のヨーロッパ外交について見ていきましょう。

戦勝国の深い傷

1914年から1919年まで続いた第一次世界大戦。この世界大戦は双方とも莫大な戦費と人員を失いましたが、かろうじてイギリスとフランスの連合国が勝利して幕を下ろしました。

イギリスとフランスはドイツに対して莫大な領地と莫大な賠償金を獲得してこの戦費を賄おうとしましたが、人口の大半を兵士として突っ込んだこともあり、戦勝国とは思えないような被害はどうしても埋めることができず、国内では平和団体が溢れかえり「戦争はもうこりごりだ!」と声高々と主張をしていくようになります。

もちろん、真っ当な考えなんですが、これによってイギリスとフランスはこれまでのような積極的な外交は行わなくなり、どちらかというと戦争が万が一起きたとしてもなんとか被害を出さないように防衛を強化するなど平和をなんとか守り通す状態へと変わっていくことになりました。

独裁者による国家へ

対して敗戦国となったドイツ。ドイツでは逆に莫大な戦費がかかったのにもかかわらず、さらに賠償金がかけられてしまい国内の経済はどん底に。さらには賠償金が支払えてないことを理由にフランスがドイツの最大の工業地帯であったルール地方を無理矢理分捕るなどドイツの経済に打撃を与えることをフランスは行なっていくことになります。

その結果、ドイツは未曾有の不景気に突入。ドイツではパンを買うだけなのに札束を大量に持って行かなければならないハイパーインフレーションに突入することになってしまい、国内は再びドイツを蘇らせるカリスマの登場を今か今かと心待ちしていました。

そんな最中、ドイツに颯爽と登場したのが国家社会主義ドイツ労働者党。いわゆるナチス党です。ナチス党のリーダーであるアドルフ・ヒトラーは1933年に首相に就任し、さらにはヒンデンブルク大統領が死去するとヒトラーは総統に就任し、さらには議会の意向を完全無視することができる全権委任法を可決させるなどやりたい放題を見せていくようになりました。

ラインラントの失敗

1930年代になると平和団体で溢れ返ることとなったフランスは大戦の傷をいまだに回復できず、それが原因で国際外交で次々と握手を打っていくようになっていきました。例えば1935年にイタリアとソ連と条約を結んだのですが、その翌年にイタリアのムッソリー二がエチオピアに侵攻した際に有効な策を講ずることができなくなってしまうだとか、フランスに巨大な防塞線(マジノ線)を建設したせいでフランス軍の近代化が遅れてしまうなど次々とその政治姿勢が裏目に出ることになります。

もちろん、フランスの最大の仮想敵国はヒトラーが総統となって急速に力を伸ばしているドイツ。そんなフランスとドイツとの緊張関係のさなかで起こったのがラインラント進駐だったのです。

ラインラントはライン川両岸地帯を言い炭田で有名なルール地方や、西ドイツの首都であったボンなど政治的、経済的に重要都市が非常に多く、ドイツの経済を成り立たせているような地域であったのですが、1920年のヴェルサイユ条約によってこの地域は非武装地帯としてドイツ軍は入ってはいけないとされてしまったのでした。

しかし、ヒトラーはそのラインラントに進駐を開始。これは要するにヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄するといっているようなものであり、フランスはこれを是が非でも阻止するべき事態でもあったのです。

しかし、フランスはこのラインラント進駐を無視。

ヒトラーもこの作戦を賭けと称したようにまさしく一世一代の大勝負となったのですが、結果的にはこのラインラント進駐をフランスは黙認。この結果ヒトラーは自身が思い描いていた東方生存圏の第一歩を歩み始めることになるのでした。

チェンバレンの宥和外交とアンジュルズ

ラインラント進駐に味を占めたヒトラーはこれ以降次々と領土拡張に野心を燃やしちくことになります。

そしてその第一の目標となったのが、ヒトラーの生まれ故郷でもありドイツ系の民族が多くすんでいたオーストリアでした。

オーストリアはサン=ジェルマン条約によってドイツとオーストリアの合邦は禁止されていたのですが、オーストリアのドイツ統合の支持がかなり強いことに目を付けたヒトラーはオーストリアの親ドイツ勢力をあおってオーストリアの合併を目指していくようになると首相を暗殺。さらにドイツがオーストリアを統合するための国民投票を行い、過半数を得られたことを大義名分としてオーストリアを併合(アンシュルス)を行ったのでした。

イギリスとフランスは「民族自決はどこの国にもあって当然」という観点から黙認。ヒトラーの領土拡張は認められたのです。

ヒトラーが狙ったズデーテン地方

こうしてオーストリアを獲得したヒトラー。しかし彼の野望はまだ終わりません。次に狙うのは東欧ではドイツに次いで工業国家として栄えていたチェコスロバキアでした。

ヒトラーはホスバッハ覚書にてチェコスロバキアをドイツの領土に組み入れてその工業地帯をドイツの軍備増強に充てると考えを示していたのです。そこでヒトラーはチェコスロバキアの侵攻『緑作戦』を実行する前段階としてチェコスロバキアの工業地域であったズデーテン地方を獲得することに乗り出していくことになるのでした。

ヒトラーはズデーテン地方に住んでいるドイツ系民族がチェコスロバキアによって迫害されていることをドイツの映画にて大々的に宣伝。ヒトラーがチェコスロバキアに対してズデーテン地方を寄越すように圧力をかけてきたのです。

チェコスロバキアもこのドイツの横暴に我慢ならずこれに対抗するために非常事態を宣言。最悪の場合フランスとイギリスとの挟み撃ちで決着をつけようと計画を練り始めていったのでした。

しかし、イギリスのチェンバレン首相はこれによって再び世界大戦が起こると危惧してこのズデーテン地方についての問題に介入することに決意。

ヒトラーは本当に攻め入るつもりでしたが、このタイミングで同じくファシストのトップであったムッソリーニが仲介に入ったことによってドイツの都市ミュンヘンにて会談が行われることになったのでした。

次のページを読む
1 2 3
Share: