ソビエト連邦ヨーロッパの歴史ロシア

かつてあった北の大国「旧ソ連」とは?わかりやすく解説

ソ連の停滞の始まり

ブレジネフの時代は18年にわたって続いた長い時代でしたが、このブレジネフの時代からソ連の問題や社会主義国家の弊害が次々と現れていくことになります。

ブレジネフの時代にはソ連の極度な官僚主義によって官僚が次々と腐敗。それを止めるはずであるブレジネフも腐敗したことによって経済は思いっきり停滞することに。

その結果国民の配給品などが行われなくなっていくようになり、国民の生活は完璧に悪い事はありませんでしたが、ここから経済の成長はほとんどなくなってしまい、アメリカや日本に大きな遅れをとるようになりソ連崩壊の直前はGNPも日本に抜かれて3位となってしまいます。

さらには西側諸国の豊かな生活を知ることが多くなっていき、ソ連の生活に嫌悪感を持つようになっていきました。

アフガニスタン侵攻とソ連の揺らぎ

ソ連が停滞していくことになっていた1970年代からソ連は中東に対して勢力を持つようになっていきます。ソ連はこの当時ソ連の実質的な配下にあったアフガニスタンの共産主義政権がアメリカと関係を結ぼうとしている情報をキャッチするとその共産党政権を打倒するためにアフガニスタンに侵攻を開始。この結果中東諸国や西欧諸国の猛反発を受けるようになり1980年に行われる予定であったモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになります。

アフガニスタンの戦争は大量の人員と大量の戦費を費やしましたが、なかなか攻め入る事はできません。最終的には泥沼化していきこれ1989年まで続くことになるのです。

一方でソ連国内での政治体制も次々と変化が現れていくようになり、ブレジネフが1982年に死去するとアンドロポフ、チェルネンコといった高齢の指導者がソ連のトップになることに。しかし高齢であるがゆえにトップになった一・二年後に次々と病死。ソ連の停滞と相まってソ連は大きく混乱していくことになります。

そして次にトップとなったゴルバチョフ政権が幕を開けることになるのでした。

ペレストロイカの開始

1985年3月に誕生したゴルバチョフ政権は破綻していたソ連の経済をなんとかして立て直すために社会主義体制を大きく変革させるペレストロイカを推し進めていきます。

ペレストロイカでは選挙方法を変えて官僚政治をなんとかして取り除いたり、さらにはグラスノスチといった形で情報統制の緩和を進めていくことになりました。

しかし、この情報公開がソ連が隠し通さなければならなかったことまでバラしてしまうようになり、ソ連国民が虐げられていたことがついに国民に知られてしまうことになります。

その結果ソ連の独裁はほぼ不可能なものとなってしまい、ソ連ではソ連共産党の一党独裁を放棄。複数政党制と大統領制の導入が決定されました。

また、外交関連でも変革が見られていくようになり、1988年5月にソ連はアフガニスタンから撤退。

さらには東欧諸国が相次いで民主化を行う東欧革命が起こったことを受けてマルタにてアメリカ大統領のブッシュが会談するマルタ会談が行われ正式に冷戦の終結しました。

ソ連の崩壊

こうして変革と冷戦を終結させたゴルバチョフ。しかし、情報公開と西側諸国との和解はソ連にとっては致命的なダメージを与えることになります。

まず、冷戦が終結したことによって各地の民族たちがソ連からの脱却を開始。1990年にリトアニア、エストニア、ラトビアのバルト三国が独立を発表してソ連の支配から抜け出してしまいます。

ソ連の政府はこれに慌ててゴルバチョフを失脚に追い込むためのクーデターを保守派は行いますが、エリツィンをはじめとした改革派の活躍によって失敗。このクーデターの失敗によってソ連の政府は事実上崩れていくことになります。

ゴルバチョフはもうこれ以上ソ連を維持することはできないと判断して12月17日に年中で連邦政府の活動停止を宣言、12月25日にゴルバチョフがソ連大統領を辞任、最高会議で連邦解体を宣言したことによってついにソビエト連邦は69年の歴史に幕を下ろしました。

ソ連は世界に多大な影響を与えた

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ソ連は社会主義国家という世界で初めての経験をした国であり、第二次世界大戦後に世界を二分する勢力となった国でした。

しかし、ソ連はその理想すぎる考えから崩壊の道を歩んでいったのです。

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