まずは戦国時代のおさらいから!
戦国時代は室町時代の中期に京都で起こった大乱・応仁の乱から始まります。そして全国津々浦々で領地をめぐっていつ果てるともない激しい戦闘が約100年にもわたって繰り広げられました。
1.下剋上ー斉藤道三・北条早雲など
京都での応仁の乱が終わると、室町時代に各地を治めていた大名たちは自らの領国に帰還します。しかし、そこは彼らにとって安寧の地ではありませんでした。当時、室町幕府の権威は地に落ちていましたが、大名の権威もまた落ちており、家来たちがその座を奪おうと手ぐすねを引いていたのです。こうして、身分の低い者が高いものに反逆し、その座を奪い取る「下剋上」と呼ばれる現象が全国各地で起こりました。
代表的な例では、一介の油売りから身を興し、ついには美濃(現在の岐阜県南部)の大名までになった斉藤道三、地方の小さな領主から相模(神奈川県)の大名になった北条早雲がいます。
2.一地方を治める大大名が台頭
やがて、一地方を治めるような大大名が登場します。先述の北条早雲の北条氏は関東に勢力を広げ、3代目の氏康の頃には南関東全域を支配するほどまでに成長しました。また、甲斐の武田信玄が領土を拡張し、越後の上杉謙信と川中島で激突した話などは有名ですよね。また西に目を転ずれば、安芸(現在の広島県西部)の武将・毛利元就が巧みな謀略を駆使して中国地方を統一していきました。
トーナメント戦ではありませんが、このように戦争の時代が続きますと、強い武将が残り、弱い武将は淘汰されていくということは必然ではあります。
3.織田信長の登場ー戦国の世から天下統一へ
そんな戦国時代に大きな転機が訪れます。織田信長の登場です。信長は尾張国(現在の愛知県西部)の武将で、当時東方にいた大大名、今川義元を破って頭角を現しました。その後は破竹の勢いで勢力を拡大し、ついには室町幕府の将軍・足利義昭を京都から追放。天下人への道を歩み始めます。一般的に戦国時代が終わりを告げるのは、この信長が足利義昭を追放した1573年まで、と言われています(以後は安土桃山時代)。
戦国時代は、信長の登場で急展開した終わりの十数年が一般的にとても有名です。
信長によって変わった戦国時代
それでは、なぜ戦国時代は「信長以前」「以後」で分かれるのかをみていきましょう。その理由は、信長の革新性にあります。この男、他の武将とは考え方が少し違っていたようです。
【信長の革新性・その1】本拠地を次々と変える
戦国時代を通じて、基本どの武将にも、本拠地を次々と変えるという発想はありませんでした。なぜなら彼らには「ふるさとの領国」があり、戦いが終わればそこに帰っていくからです。しかし信長はこの常識を破り、本拠地を完全に「引っ越し」してしまいました。具体的には、元々生まれた尾張国から岐阜へ、岐阜から琵琶湖畔の安土城(現在の滋賀県)へ、というように。
本拠地を移した理由は、その方が信長自身、合理的に行動ができたからです。例えば、安土城にいた際は京都など近畿各地が信長の舞台でした。もし京都へ頻繁に行くのに岐阜が本拠地だったら、わざわざ遠出をしなければならず、合理的ではありませんからね。
【信長の革新性・その2】常備兵
戦国時代と言えば、誰もがいつでもどこでも戦闘の準備を整えていたように思われがちです。しかし、当時は農民が兵士をも兼ねており、武将たちは農民の状況を見ながら兵士を動員するしかありませんでした。ですから、農繁期などはなかなか兵を出せませんでした。
そこで信長。「年中戦える集団を編成しよう」と考えるわけです。つまり常備兵ですね。これによって、時期にとらわれることのない軍団づくりが可能になったのです。これもまた、戦国時代を変えました。