日本の歴史昭和

五・七・五に囚われず自由に俳句を詠んだ「種田山頭火」の生涯をわかりやすく解説

「山頭火」という名前が付いた人気のラーメン屋さんがあるので、「あれ、なんて読むんだろう」となんとなく気になっていた、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかもそのラーメン屋さんでは、横書きのときは左から書くので「火頭山」と読んでしまう人も稀に……。文学に詳しい人なら「種田山頭火(たねださんとうか)にちなんで付けたのかな」とピンとくるところだと思います。種田山頭火とは、明治・大正・昭和を生きた俳人。いったいどんな人物だったのでしょうか。今回は独特の世界観で今なお多くの人々から支持される種田山頭火の生涯に迫ってみたいと思います。

のびのびと、時に切なく、温かく~種田山頭火の世界

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俳句というと、「五・七・五で作る」「季語を1つだけ用いる」など、いろいろ決まり事があって敷居が高いイメージがあります。しかしこの種田山頭火という人の俳句はとにかく自由。自由律俳句(じゆうりつはいく)と呼ばれる、定型にこだわらない作り方で、感情の赴くまま、自由に言葉を綴って高い評価を得ています。種田山頭火の俳句とは?常識にとらわれないのびのびとした世界観を味わってみましょう。

俳句に自由を!独特のリズムで自由律俳句を書き続けた種田山頭火

種田山頭火は「自由律俳句」を代表する俳人です。

1911年に創刊された『層雲(そううん)』という俳句雑誌などで活躍。『層雲』の編集者であった荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)や、同じ頃にやはり自由律の俳人として活躍した尾崎放哉(おざきほうさい)らと並んで、数多くの句を世に送り出しました。

57年の生涯で、8万句以上もの俳句を詠んだといわれています。

規則にしばられない自由な俳句であったとしても相当な数。きっと日常の物事を「言葉」にするのが好きだったのでしょう。

山頭火の句を見てみると、あまりの自由さに驚く人も多いようです。「こんなのなら私にも作れそう!」そう感じる人も少なくないはず。1句だけ取り上げて読むとそんな印象を受けがちですが、たくさん読んでいくと……素朴で短い文章の中から、日々のつましい暮らしや自然をいつくしむ様子が滲み出てくるようです。

続けて読んでいくうちに、他の句も、もっとたくさん読んでみたくなる、クセになる。「なんだこりゃ」と顔をしかめたり、くすっと笑ったり、ほろっと切なくなったり。山頭火の俳句には、そんな魅力が詰まっています。

山頭火の句を全部ご紹介することはできませんが、ほんの一部だけ、雰囲気のある句を挙げてみました。

【山頭火の代表的な俳句】
あたたかい白い飯が在る
いつも一人で赤とんぼ
うしろすがたのしぐれてゆくか
お寺の竹の子竹になつた
音はしぐれか
笠にとんぼをとまらせてあるく
霧島は霧にかくれて赤とんぼ
けふもいちにち風をあるいてきた
こころすなほに御飯がふいた
殺した虫をしみじみ見てゐる
こんなにうまい水があふれてゐる
だまって今日のわらじ履く
酒はない月しみじみ観てをり
月夜、あるだけの米をとぐ
つくつくぼうしあまりにちかくつくつくぼうし
どうしようもない私が歩いてゐる
何が何やらみんな咲いてゐる
ぬれててふてふどこへゆく
はだかで話がはづみます
ひとりひっそり竹の子竹になる
ふまれてたんぽぽ開いてたんぽぽ
ふるさとの水をのみ水をあび
へうへうとして水を味ふ
まっすぐな道でさみしい
山あれば山を観る
春の山からころころ石ころ
もりもり盛りあがる雲へあゆむ
分け入っても分け入っても青い山
焼き捨てて日記の灰のこれだけか

「山頭火」って何?不思議な名前の由来とは

「山頭火」という名前、本名ではありません。山頭火の本名は種田正一(たねだ しょういち)といいます。「山頭火」はペンネーム(俳号)です。

では、ちょっと不思議な「山頭火」という名前の由来はというと……。これは納音(なっちん)からとったものなのだそうです。

納音とは、人の運勢を判断する占い用語のひとつ。六十干支や陰陽五行説、音韻理論などを用いて分類された30語のことです。生まれ年それぞれに納音が決められており、そこから人の運命を判断するというもの。同じく自由律の俳人として知られる荻原井泉水の「井泉水」も、納音にちなんでいます。

例えば1985年(昭60年)生まれの人の納音は「海中金(かいちゅうきん)」、1995年(平成7年)生まれの人は「山頭火」。2008年(平成20年)生まれの人は「霹靂火(へきれきか)」といった具合です。

ただし、種田山頭火の生まれ年は1882年で、この年の納音は「山頭火」ではありません。生まれ年の納音ならば「楊柳木(ようりゅうぼく)」のはずです。

種田山頭火は「山頭火」を選んだ理由に「30の納音の中で一番気に入ったものを選んだだけ」と語っています。

家族から離れて一人放浪生活……種田山頭火の生涯

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種田山頭火とは、明治に生まれ、大正・昭和初期を生きた俳人です。20代後半から30代にかけて才能を開花させ、本格的に文学を学んでいましたが、自身が抱える心の傷や実家の借金などが重なって、波乱の生涯を遂げたことでも知られています。どんな暮らしをしていたのか、種田山頭火の生涯をたどってみましょう。

母の死と心の傷:種田山頭火の少年時代

種田山頭火は1882年(明治15年)、現在の山口県防府市に生まれます。

生家は地元の地主。大きな家だったそうです。山頭火は長男で、他に姉、妹、弟が二人の五人きょうだいでした。

山頭火の父はなかなかの男前で、妾をかこったり芸者遊びに興じたり、金遣いの荒いところもあったそうです。そんな父の所業に耐えかね、山頭火が10歳のとき、母が自宅の井戸に身を投げ自殺するというショッキングな出来事が起こります。

母の死に、山頭火少年の心が深く傷いたことは言うまでもありません。

辛い記憶とともに成長した山頭火ですが、学校の成績は大変憂愁だったようです。高校時代は友人たちと文学雑誌を作るなど、俳人としての片鱗を覗かせています。

高校卒業後は早稲田大学に進学。しかし神経症などが原因で、卒業せず山口へ戻ります。

この頃の種田家は、相場取引の失敗などが重なって傾きかけていました。山頭火の父は代々続いた家屋敷を売り、酒造業を始めますが、これもうまくいかず、結局、残っていた家なども全部手放すことになってしまうのです。

山頭火は実家の事業が崩壊した頃、27歳のときに結婚し、翌年に長男を授かっています。

俳人として頭角を現すも不幸が重なり寺男に

家族ができてまもなく、種田山頭火はいくつかの俳誌に作品を発表するなど、本格的に俳句に取り組み始めます。

1913年(大正2年)、31歳のときに始めて『層雲』に投稿。山頭火と名乗り始めたのもこの頃です。

俳人としての未来が開けた頃、実家の種田家が破産。父は失踪、借金だけが残ります。山頭火は妻子を連れて山口を離れ、知人を頼って熊本へ。熊本で心機一転、古書店を始めますが、これもうまくいきません。

自分の家族の生活と、実家の借金。山頭火は何とか収入を得ようと単身東京へ出ますが、結局、妻から離婚を切り出され、これに応じることになってしまうのです。

その後、しばらく東京で勤めに出ていましたが長くは続かず、関東大震災の後、熊本の元妻のもとに居候し始めます。酒におぼれ、路面電車の線路に立ち入って電車を止めるという騒動を起こしたこともあったのだそうです。

その路面電車飛び込み騒動の現場に、たまたま、知り合いの記者が居合わせていました。その記者にすすめられ、熊本市内の報恩禅寺というお寺の住職のもとに身を寄せることになります。

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