日本の歴史昭和

関東軍が満州支配のために実行した「張作霖爆殺事件」とは?元予備校講師が分かりやすく解説

日本による大陸進出

第一次世界大戦がはじまり、欧米列強の目がヨーロッパに注がれている間、日本は着々と中国進出の動きを強めました。1915年、袁世凱政府に、日本は戦争中に占領した山東省のドイツ利権を日本が引き継ぐことなどを内容とする二十一カ条の要求を認めさせました。

1917年、寺内正毅首相の私設秘書である西原亀三が中国にわたり、袁世凱死後に北京を支配していた段祺瑞と交渉。段祺瑞に資金を提供して、日本の影響力を強めようとしました。日本が段祺瑞に資金を貸し付けたことを西原借款といいます。西原借款は段祺瑞政権の崩壊により無意味になりました。

1920年代後半、日本は中国に対して強気の外交に出ます(対中国強硬外交・積極外交)。田中義一内閣は1927年に中国関係の外交官などを集め東方会議を開催。積極外交を確認しました。1927年から28年にかけて、日本は山東省の日本人居留民の保護を口実に3度にわたる山東出兵を行い、北京を目指して進撃していた蒋介石の妨害を図ります。

張作霖爆殺事件の経過

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Sweeper tamonten (talk) – 「アサヒグラフ」 (朝日新聞、昭和3年6月13日発行), パブリック・ドメイン, リンクによる

1925年に孫文が死去すると、国民政府のトップは蒋介石となりました。蒋介石は、中国各地の軍閥を倒し中国を統一する北伐を開始します。日本は奉天軍閥の張作霖を支援していました。日本は張作霖が北伐軍と正面から戦っても苦戦すると考え、張作霖に満州撤退を進言しますが張作霖が拒否します。このころから、関東軍内部で張作霖を暗殺する陰謀が進められました。

蒋介石の北伐

1925年、中国革命の指導者である孫文が訪問先の北京で亡くなりました。孫文は共産党と手を組み、中国各地の軍閥を掃討することを目指します。孫文の後継者となったのは軍人の蒋介石でした。

蒋介石は孫文の遺志を継ぐとして、北京などを支配する軍閥を打倒するための「北伐」を開始します。中国南部の広州を出発した北伐軍は中国南部の軍閥を打倒。中国南部の大都市である南京や上海を制圧しました。

上海を制圧した蒋介石は、突如、共産党との手切れを宣言。共産党員を政権から追放しました。これが、上海クーデタです。上海クーデタ後、蒋介石は北伐を再開します。

途中、日本による山東出兵の妨害を受けますが、日本軍との衝突は上手に避け、北京を支配する張作霖との戦いに持ち込みました。張作霖軍は士気が低く、蒋介石率いる国民政府軍との戦いで敗北します。

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