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日本美術界の立役者「岡倉天心」とは?センス抜群の英語力で世界に日本の美術を発信!

「岡倉天心(おかくらてんしん)って誰?」って、思う方は少なくないでしょう。近代日本画の巨匠といわれる横山大観(よこやまたいかん)をはじめ下村観山(しもむらかんざん)や菱田春草(ひしだしゅんそう)らを育て、日本美術界の指導者として活躍した凄い人なんです。でも、彼の生涯は波乱万丈だったんですよ!

1.幼いころから努力家だった岡倉天心

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子どものころから英語が達者だった岡倉天心(おかくらてんしん)は、日本はもちろん東洋美術を世界に紹介した人物です。日本における近代美術界を、大きく発展させたのも彼の功績。気は強いけど繊細な心を持った子どもだったようです。それでは、岡倉天心の幼少期をひも解いてみましょう。

1-1文明開化と共に育った岡倉天心

岡倉天心は、文久2年12月26日(1863年2月14日)に、福井藩士の父岡倉覚右衛門(おかくらかんえもん)と母このの次男として誕生しています。長男港一郎は16歳で病死、英語学者となった弟の由三郎、彫刻家の山田奇斉と結婚する妹の蝶子の4人兄弟でした。幼名は岡倉角蔵(又は覚蔵・おかくらかくぞう)。後に本名を岡倉覚三と改名しています。「岡倉天心」は号です。

明治維新直前に開港地となっていた横浜の本町で生まれました。下級武士だった父は才能を買われ、江戸藩邸詰めを任命されるほど出世しました。その後町人となり福井の特産品や生糸を扱う貿易商「石川屋」の手代となります。石川屋は西洋人が出入りするほど繁栄しており、天心も幼少期から英語に親しんで育ったようです。

6歳か7歳からは、宣教師ジェイムズ・バラーの英語塾に通っており、9歳のころにはネイティブ並みに話せました。彼の単語の使い方は独特で、日本にいながら外国人に負けないほど上手に使えていたとか。この頃には、日本美術を世界に配信した英語力を身に付けていたんですね!

ちょっと雑学

本名の「覚三」ではなく、「天心」が一般的に知られています。日本の茶道を英語で紹介した『The Book of Tea(茶の本)』には、岡倉天心ではなく「岡倉覚三著」と記されているんです。でも、日本の翻訳本は、「岡倉天心」なんですよ。

岡倉天心を師と慕う横山大観らが、「天心」の方が芸術に貢献した人物として神格化するのに好都合と考え広く公表したのが起因です。その代表には、興日本美術院の敷地内に一周忌に建てられた「天心霊社」や死後8年目に出版された『天心全集』があります。

1-2 岡倉天心が残念なのは国語力だった?!

川崎大師まで行く途中にあった標示杭を見て、「あれを読んでみろ」と父にいわれたときのこと。幼いとはいえ、書かれた文字を一字も読むことができなかったのです。本人はもちろん、父にもショッキングな出来事でした。

負けず嫌いの天心は直ぐ「国語の勉強をさせてください。」と父に頼んだようです。国語の勉強のために7歳の時に亡くなった母こののお墓がある「長延寺(ちょうえんじ)」に預けました。これには、父の再婚も絡んでいたようです。

長延寺の玄導住職から、『大學(だいがく)』、『論語(ろんご)』、『中庸(ちゅうよう)』、『孟子(もうし)』などの漢籍を使って漢字を学びました。天心の偉いところは、漢字だけでなく英語も継続して勉強したこと。

2.横浜を去り東京で学ぶ天心

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明治維新が終わると、天心は神奈川を去り東京に出ました。勉学に秀でていた天心は、明治8(1875)年に「東京開成学校」に入学します(入学の2年後に、東京大学と名前が変わります)。日本美術を好んだフェノロサの通訳を通し日本の伝統芸術に興味を持ち、神格化されるほどの人物に成長しました。

2-1東京大学で学ぶ天心

東京に出た天心は得意な英語の力を向上させるため、明治6(1873)年に東京外国語学校(現:東京外国語大学)の英語科に入学します。2年後に東京大学の前進東京開成学校の普通科に進みました。

当時の東大には、法学部、理学部、文学部、医学部の4つの学部があり、天心は文学部を選んでいます。主に政治学や経済学を学ぶも、どの学部の授業も受けられたので、和文に漢文、英文などさまざまな教科を受講し、お雇い外国人のアーネスト・フェノロサが教える「審美学」の授業も受けました。

フェノロサの日本美術史の体系的研究に、狩野派など伝統的な日本美術に関わる人々が協力するようになるも、彼は日本語が話せません。そこで、天心や有賀永雄、宮岡恒次郎らが通訳や翻訳を務めました。そのときに美術の力も身に付けたようです。

ちょっと雑学

岩倉使節団に父大久保利通に従って渡米した経験のある牧野伸顕(まきののぶあき)も、開成学校に通っていました。彼も天心の英語力を認めており、「天心は海外の地を踏んだことがないのに、4年も留学し現地の学校に通った自分より英語力は凄い。」と語っています。天心の英語のセンスが「ピカ一」だったことが分かるエピソードですね!

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