日本の歴史明治

近代ニッポンを支えた世界遺産「八幡製鉄所」とは?わかりやすく解説

かつて明治日本の近代化を支えた「明治日本の産業革命遺産」が2015年に世界遺産登録されました。三池炭鉱や軍艦島(端島炭鉱)、韮山反射炉など実に23もの資産で構成されています。そして八幡製鉄所もまた製鉄という面で近代化に貢献した重要な施設でした。明治の操業開始以来、現在に至るまで稼働し続けている生きた遺産を詳しくご紹介できたら。と思います。「鉄」だけに固い話になり過ぎないよう、わかりやすく述べていきますね。

八幡製鉄所ってどんなところ?

image by PIXTA / 24698692

かつては官営だった八幡製鉄所の現在は、日本製鉄九州製鉄所八幡地区という名称になっていて、4,000人を超える従業員を抱えています。まず八幡製鉄所がどのようなところなのか?詳しく見ていきましょう。

蓄積されたノウハウと技術力で世界をリードする製鉄所

現在の八幡製鉄所(九州製鉄所八幡地区)で製造されている製品群には以下のようなものがあります。

薄板と呼ばれる電磁鋼板。近年の省エネ家電や電気自動車の部材として使われ、軽量かつ高強度の材料として汎用的に用いられています。

高級特殊鋼の棒鋼・線材は、自動車・産業機械向けの鋼材として用いられ、橋梁のケーブルから家庭用のベッドスプリングやスチールたわしに至るまで、広く普及しているとのこと。

レール・鋼矢板は、新幹線をはじめとした鉄道用のレールや、建築物・土木建築用の建設資材などとして用いられ、高強度の耐久性が求められる鋼材です。

鋼をパイプ状に圧延した鋼管も製造しています。特に基礎用建材であるスパイラル鋼管は、建設現場や環境に配慮した技術力の高い製品となっていますね。

八幡地区は長い歴史を持つ製鉄所ですが、近年は特に九州地区の自動車工業向け鋼板の供給基地として、また近接するアジア市場への輸出拠点としての役割が強まっているそうです。

鉄道で繋がった3つの八幡製鉄所

0903110424 NS kuroganeline.jpg
Alt_winmaerik – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

現在の八幡製鉄所は3つの地区に分類されています。一つは明治34年に完成した八幡地区戸畑地区。そしてもう一つが大正5年に竣工した小倉地区となっていますね。本来の八幡製鉄所は八幡・戸畑地区のほうにありました。

新日鐵住金八幡製鉄所並びに小倉製鉄所というふうに別々の事業所だったのですが、2014年に統合されて現在の形となりました。さらに会社の商号変更に伴って2020年4月から、現在の社名となっています。

八幡地区と戸畑地区の間には、延長6キロに及ぶ鉄道「通称:くろがね線」が結ばれており、スラブと呼ばれる廃棄物や、スクラップなどを輸送していますね。旅客用の路線ではないために人は乗れませんが、かつては連絡用の人員を輸送することもあったそうです。

このくろがね線は、戸畑→八幡へ銑鉄(鉄になる前の原型)を運び、逆に八幡→戸畑へスラグを運んで埋め立て用の材料とし、工場敷地の拡張に寄与していました。

輸送量が多かった時期は複線を使って運行されていましたが、現在は列車が減ったために単線で運行されており、特に運行ダイヤなども公表されてはいません。しかし多くの鉄道ファンが、この路線見たさに頻繁に訪れていて根強い人気があるのです。

産業観光を推進する北九州市

八幡製鉄所のある北九州市は、日本の産業近代化とともに発展してきた街ともいえます。洞海湾に沿って、「ものづくり」をする多くの工場が立ち並び、石炭産業の隆盛とともに日本の産業の屋台骨を支えました。また産業発展の副産物ともいえる公害問題を乗り越え、現在においても日本有数の工業地帯だといえるでしょう。

そして国や自治体の動きに先がけて、産業観光を推進してきた都市の一つが北九州市でもあるのです。市の積極的な取り組みは、2009年に「産業観光まちづくり大賞」金賞を受賞するなどして実を結び、官民一体となった観光誘致は高く評価されています。

2015年に官営八幡製作所が世界遺産として登録されましたが、その前年の2014年、北九州商工会議所が「全国商工会議所きらり輝き観光振興大賞」を受賞し、北九州産業観光センターが「産業観光まちづくり大賞」金賞を受賞しました。決して世界遺産頼みではない観光事業に対する取り組みが垣間見えてきますね。

具体的な取り組みとしては、「ものづくりの街」を認知してもらうために行っている3つの事業があります。

「工場見学」は、実際の製造現場を見学することで、どのように製品が完成していくのかを理解してもらうこと。ロボットがロボットを作る工程や、衛生陶器や無添加石けんなどを職人が手作業で作る現場など、技術の最先端を体感できるようになっています。また多くの企業では「資料館」も併設されているそうです。

「工場夜景」は、船舶を使った観光クルーズで、圧倒的なスケール感が特徴。大規模な工場群が深い闇の中で、美しくも重厚な景観を作り出していますね。闇夜に浮かぶ建造物の輪郭や、不規則に並ぶ設備が、観る人をまるで夢幻の世界へと誘います。

そして「産業遺産」ですね。八幡製作所だけではなく、北九州市内には「旧大阪商船」「旧門司税関」などの文化財が保存されていますし、「東田第一高炉」「旧九州鉄道茶屋町橋梁」といった明治の日本を支えた近代産業遺産も見学できるのです。

産業観光とは、テーマパークや商業施設のようにどんどん新しいものを作ることができません。今あるものをいかに活用していくかという点が重要になってきます。そういった意味で、北九州市の取り組みは、全国の自治体のモデルケースになるのではないでしょうか。

八幡製鉄所の歴史【明治~昭和初期】

八幡製鉄所旧本事務所.JPG
Indiana jo投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

日本における近代鉄鋼業の歴史の幕開けは、釜石から始まりました。明治13年に操業を開始した釜石製鐵所がそれです。やがて後を追うように八幡製鐵所が完成し、近代産業の発展に大いに役立つことになります。八幡製鐵所の歴史の前半をひも解いていくことにしましょう。本来なら「製鉄所」ですが、戦前ということもあり、あえて「製鐵所」の呼称を用いますね。

日清戦争の賠償金で近代的な製鐵所を!

時代は遡りますが、清国がイギリスに敗れた頃から攘夷政策に舵を切った幕末の当時、日本の沿岸には台場と呼ばれる堡塁が数多く造られ、外国からの脅威に備えていました。

しかし当時の日本の技術では、日本刀をはじめとする刀槍類は作れても、台場に置くはずだった大砲の鋳造技術はまったくありませんでした。先進的な藩は、自前で反射炉を造って独自に鋳造を試行錯誤し、薩摩藩や長州藩のように成功を収めた事例もありました。

やがて明治を迎えると、本格的な洋式高炉の採用が決定され、当時は有数の鉄鉱山のあった岩手県釜石に、日本初となる製鐵所が置かれたのです。時に明治13年のことでした。

ところが、当時はまだ製鉄の技術も未熟な上に、さほど鉄の需要もなかったため、瞬く間に経営難に陥ってしまいました。結局はわずか3年ほどで民間に払い下げられ、日本の鉄鋼業はスタートした直後につまづいてしまったのです。ちなみに釜石製鐵所は、その後長い歴史を紡ぎ、現在は日本製鉄東日本製鉄所釜石地区となっていますね。

そんな中、やがて仕切り直しの時が訪れました。日本と清国の間で日清戦争が起き、勝利した日本は多額の賠償金を手に入れたのです。さらなる近代化促進のために、改めて国内に大規模製鉄所を建設する動きが起こってきたのでした。

明治28年、政府は官営製鉄所の設置を決め、新たな建設地として九州北部の洞海湾に面した八幡村が選ばれました。当時は戸数350、人口1,200人のうらぶれた漁村だったのですが、一躍、製鉄の一大産地として変貌を遂げることになったのです。

度重なる困難に直面した製鐵所黎明期

なぜ鄙びた八幡村が建設地に選ばれたのでしょう?実は高炉の燃焼に欠かせない石炭やコークスを潤沢に採掘できる筑豊炭田がすぐ近くにあり、かつ港湾さえ整備すれば船による積み出しが容易だったこと。そして僻地だったこともあり、地代が非常に安価だったからです。

ドイツから専門技師を招いた建設工事に4年を費やし、八幡製鐵所が完成を見たのは明治34年のこと。高さ30メートルにもなる溶鉱炉が姿を見せました。同年2月に火入れ式が行われ、皇族や政府高官も招いた盛大な式典が開催されたそうです。

ところが、そんな祝賀の雰囲気もどこへやら。その後は溶鉱炉が正常に機能しなかったり、トラブルも相次ぐなどして、翌年の夏には操業停止に追い込まれてしまったのです。

万難を排して、明治36年4月に再度火入れが行われましたが、またしても溶鉱炉の不調は収まらず、わずか17日間で創業はストップしてしまいました。

焦った明治政府は、製鉄所総裁や技監を更迭。東京帝国大学工科大学教授だった野呂景義を技師として招いた上で原因究明に当たらせたのです。

調査の結果、溶鉱炉の構造上の欠陥と、コークスなど原材料の調合不良が原因だと野呂は見抜きます。全てのトラブルの原因を排除した翌年、再々度火入れを行った溶鉱炉は、その後順調に稼働を続け、明治43年に至るまで2000日以上も鉄を出銑し続けたのです。

野呂をはじめ多くの技術者たちを悩ませ、見事に稼働を果たした「東田第一高炉」が、現在も跡地にそびえ立っています。世界遺産として推されたものの、これまで改修に改修を重ねた高炉だったため、認めらることはありませんでした。世界遺産となる条件は「完全にオリジナルである」こと。その条件を満たせなかった高炉は、史跡公園として公開されていますね。

次のページを読む
1 2 3
Share:
明石則実