幕末日本の歴史江戸時代

マジメさと責任感が招いた会津の悲劇?「松平容保」の生涯をわかりやすく解説

京都での活躍と苦悩

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こうして京都守護職に就任した松平容保は、1862年8月、将軍家茂から役料5万石と3万両を与えられました。しかし弱体化した幕府に成り代わって皇室や京都を守るという困難な仕事は、まさに「火中の栗を拾う」も同然。京都政界に何の関わりもない会津藩が巻き込まれる謂われはないわけです。そして容保の活躍と苦悩の時代が始まることになりました。

京都取り締まりと新選組

12月、会津藩兵1千とともに上洛した容保は、さっそく孝明天皇に拝謁。そして京都御所から鴨川を隔てた位置にある金戒光明寺を本陣として定めました。

当時の京都は尊王攘夷を掲げる長州藩はじめ不逞浪士たちの巣窟と化していました。佐幕派と見るや暗殺も辞さず、毎日のように刃傷事件が頻発していたのです。とはいえ尊王攘夷を真剣に考えていた浪士がいたいっぽうで、体よく尊王攘夷を掲げるものの「京都で一旗揚げてやろう」と野望と欲をむき出しにする浪士たちも大勢いました。

マジメな容保は当初、そういった過激派や不逞浪士たちへの対処として「話せばわかる」というスタンスで臨みました。今の日本が置かれている状況を理路整然と理解させ、道理を説けば必ず円満に解決するはずだという考えだったのです。

しかし尊攘派志士たちにとってそんな道理はどうでもよく、ひたすら弱腰を非難し、天皇をないがしろにする幕府の対応を批判するだけでした。苦悩する容保。しかしついに堪忍袋の緒が切れる時が来たのでした。

翌年2月、足利氏の菩提寺だった等持院から、足利将軍の木像の首が引き抜かれた上で三条大橋に晒されるという事件が起こったのです。足利氏は徳川氏と同じ源氏の家柄。暗に徳川幕府への批判を込めた所業でした。

これにはさすがの容保も怒り心頭に達しました。

「国を思っての行動や言動ならば理解もしよう。しかしこの所業は足利将軍たちの首を晒し、ひいては徳川家へ仇なすも同じこと。いやしくも徳川将軍家は朝廷より官位を賜り、この国の政を司る家柄のはず。これは幕府のみならず朝廷すらないがしろにする非道の行いであろう!」

この事件を契機に、「力による鎮圧」へ舵を切ることになったのです。そして3月、京都壬生村に駐屯していた浪士組が会津藩預かりとなり、正式に「新選組」へと発展していきました。

しかし、この力による弾圧が、のちに会津藩が幕府側の重鎮として敵視されてしまう遠因となったのです。

孝明天皇との蜜月の関係

当時、孝明天皇の立ち位置はかなり微妙なものでした。朝廷内は佐幕派が多いとはいえ、攘夷を叫ぶ公家も少なくなく、隙あらば天皇を担ぎ上げて幕府の力を弱めようと目論んでいたからです。

孝明天皇自身は強硬に攘夷を主張していたものの、幕府の存在がなければ国も成り立たないと考えていて、そのために公武合体に踏み切ったのでした。

そのため、幕府と朝廷を繋ぐ男【松平容保】をことさらに気に入られ、信頼も寄せておられました。ある時、天皇から容保を遠ざけようと、過激派公卿が「江戸へ下向するように」という偽の勅命を発したことがありました。結局これは偽物だと看破されることになるのですが、孝明天皇はこの時、宸翰(天皇直筆の親書)を容保の元へ届けさせました。

 

堂上以下、暴論を陳べ、不正の所置増長に付き、痛心耐え難く、内命下したる処、速やかに領掌、憂患を掃攘し、朕が存念貫徹の段、全く其の方の忠誠、深く感悦の余り、右壱箱を遣わすもの也。
文久三年十月九日

<現代訳>

「公卿の者どもが暴論を並べ立て、あまりに不正を増長するので、心を痛めることに耐えがたくなり(容保)へ内命を下す。速やかに事態を掌握し、憂いを一掃してほしい。そして私の思いを貫くにあたり、その方(容保)の忠節は深く感激に堪えない。礼として私の詠んだ和歌を賜ることにした。」

 

また「朕はもっとも会津を頼りにしている。」という言葉が添えられていました。この宸翰を賜った容保は、感激のあまりに感涙にむせび、頭を上げることができなかったそうです。

元々体が強くない容保のことを常に気に掛けておられて、容保が病に臥せっている時も、孝明天皇は自ら平癒を祈願し、神饌の洗米を賜りました。

この頃は孝明天皇と容保との蜜月の関係が続いていて、孝明天皇ある限り幕府への信頼は揺るぎないものだったといえるでしょう。

とはいえ将軍家茂はたびたび上洛するものの、事あるごとに江戸へ戻りたがり、容保を困らせました。「将軍家こそ積極的に朝廷と手を結んでいる姿を内外にアピールしなければ、この国は一つにまとまらない。なかなか分かって頂けぬ。」と嘆いたといいます。

容保は病身を押しながらも、頻繁に朝廷や二条城を飛び回っていました。

八月十八日の政変と禁門の変

尊王攘夷運動の親玉的存在である長州藩が動き出したのは1863年8月のこと。天皇に攘夷のための親政を行って頂くべく、大和行幸が画策されました。天皇を大和国へ連れ出し、そこで王政復古の大号令を天下に布告するためでした。

しかし容保や公武合体派の中川宮らの奔走によってクーデターは未然に阻止されます。逆に会津藩、薩摩藩などによって御所の門が固められ、ついに三条実美をはじめとする過激派公家たちは逃亡。長州目指して落ちていったのでした。

ところが翌年7月、再び捲土重来を期すべく長州の軍勢が京都へ上ってきたのです。目的は京都守護職松平容保の排除でした。朝廷内では喧々諤々の議論が交わされるものの、容保を信頼する孝明天皇の考えは覆りません。「長州勢を討伐すべし。」長州側も事ここに至っては引っ込みがつきません。こうして禁門の変が始まったのでした。

 

はまくり御門会津様、伊予松山様、山城淀様御固
下立売御門を伊予うは島様、ゑちぜん
中立売ニハ壬生浪人百人組、会津固

引用元 「中路家文書」より

 

蛤御門を会津藩、伊予松山藩、淀藩が固め、下立売御門は宇和島藩、越前藩が担当。中立売御門には壬生浪士組(新選組)や会津藩らが守ったとありますね。

この戦いで長州勢は壊滅。攘夷派の動きは弱体化していきました。やがて幕府側による長州征伐を迎えることになるのです。

また孝明天皇の絶大な信頼を勝ち取った容保にとって、まさにこの時代こそが黄金期ともいえるものだったでしょう。

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明石則実