室町時代日本の歴史

東山文化って何?銀閣寺?時代背景や中心人物などわかりやすく解説

京都には星の数ほど名所名刹がありますが、その中で最も有名な名所は?と聞かれたら、多くの人が「金閣」と「銀閣」の名前を挙げるのではないでしょうか。黄金に輝く華やかな金閣と、都会の喧騒を離れ滋味深い趣の銀閣。京都名刹の人気を二分する、対照的とも取れる建造物ですが、今回の記事ではこのうちの「銀閣」に象徴される「東山文化」に注目。どういう文化なのか、代表的な作品とは?「金閣」を生み出した「北山文化」との違いにも触れながら、詳しく解説します。

東山文化の特徴とは?いつ頃・どのようにして生まれたのか

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室町時代というと、京都の都を中心とした華やかなイメージがありますが、東山文化においては、そうした華やかさとは少し趣が異なります。また、茶道や華道、能や連歌などが発展し、そうした芸術は都だけでなく地方にも広まっていきました。まずは東山文化の基本的な情報から整理してみましょう。

戦乱の世が生み出した簡素な美しさ「東山文化」

東山文化が花開いたのは、室町時代中期(15世紀中盤から後半)の頃です。

この頃、京都の都は、応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱の影響で争いが絶えず、都全体が疲弊しきっていました。

応仁の乱の発端は「足利将軍家の後継者問題」と「細川氏・山名氏の勢力争い」。戦場は京都の中心地です。

争いの火種は都だけでなく全国に拡大し、細川派と山名派に分裂。無益とも言われる争いはおよそ11年もの間続きました。

それまで都で活動していた芸術家や文化人たちは、戦火を逃れるように都を離れ、地方へと逃れていきます。

こうしたことがきっかけとなり、それまで文化や芸術に馴染みのなかった地方武士や庶民にも、様々な文化芸術が広まっていきました。

貴族(公家)たち中心の文化から、寺社や武士の世界の文化や思想と融合した、新しいタイプの文化芸術が育まれていきます。

東山文化に大きな影響を与えたもののひとつが、禅宗でした。

仏教の宗派のひとつで、厳格で質素な生活を基本とする禅宗。戦乱が続き、信仰にすがる人が増えたことも大きな要因のひとつです。

キーパーソンは室町幕府8代将軍・足利義政

東山文化を語るうえで外せない人物が、室町幕府8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ・在位:1449年~ 1473年)です。

「東山」という名前は、義政が建てた東山山荘(東山殿・現在の銀閣)がもとになっています。

足利義政は、3代将軍・足利義満の孫にあたる人物。義満といえば、室町幕府をゆるぎないものにしたカリスマ将軍です。

義満以降、大きな権力を持つ将軍の座を狙い、跡目候補と有力大名たちが対立することが多くなりました。

義政は、第6代将軍・足利義教の5男。まあ将軍になることはないだろうな、ということで、出家して僧侶として生きるつもりでいました。

しかし、父が暗殺され、7代将軍となった義勝もすぐ亡くなってしまったため、急に「将軍になってくれ」と都に呼び戻されます。

跡目争いに振り回される義政。急に言われたので覚悟もできていないし、やる気もない。そもそもこの人、政治家としての能力は今一つでした。

何をやるにも、妻の日野富子や富子の実家、細川や山名、畠山といった有力大名たちの顔色をうかがい、日和見な生活を送る将軍義政。自分の後継者・9代将軍を誰にするか決める際も、自分の弟を指名したり、ああいやいややっぱり自分の息子かな、と言い出したり、なんとも頼りない。

この「次の将軍は弟の義視(よしみ)かも、あ、息子が生まれたからそっちかも」という決断力のなさが、応仁の乱を引き起こしてしまうのです。

自分で蒔いた種ではありますが、義政は都での暮らしに辟易し、逃げ出してしまいます。

逃げた先が、京都の東側に連なる東山。戦乱の最中だというのに、武士の頂点に立つ人物が、戦乱に明け暮れる都を遠く見下ろすようなところに引きこもり、あろうことか山荘造りに精を出し始めるという異常事態。実は義政という人物、政治家としては今一つですが、芸術には造詣が深く、文化人としては超一流だったのだそうです。

義政は東山の地に、滋味あふれる庭園を造営。文化人・芸術家たちの支援にも努めます。

こうして、東山を中心に、東山文化が花開いていったのです。

東山文化と北山文化との違いは?

義政の祖父であり、カリスマ将軍として名高い足利義満。アニメ「一休さん」に登場する、ちょっとオトボケで愛嬌ある将軍様としてご記憶の方も多いと思います。

この義満の時代に花開いたのが「北山文化」です。

「北山」とは、義満が造営した邸宅が「北山殿」と呼ばれていたことに由来します。

北山とは、京都盆地の北側に広がる山地の総称。船岡山や衣笠山、鞍馬や貴船なども含まれます。

北山殿はもともと、西園寺家が建てた別荘があった場所を義満が譲り受け、造営を始めたもの。広大な敷地の中に多くの建物が建ち、美しい庭園が施されていました。

義満の死後、北山殿は鹿苑寺(ろくおんじ)となります。いわゆる「金閣寺」のことです。

足利義満は将軍ですので武士のトップに立つ人ですが、将軍にして初めて太政大臣になり、武士だけでなく公家のトップにも立った大人物。文化芸術にも造詣が深かったと伝わっています。

そんな義満のもと花開いた北山文化は、もともとあった公家の文化に武家文化を融合させたもの。禅宗の影響も受けていますが、公家の影響が色濃く、全体的に優美で華やかな雰囲気を持っています。

中国大陸・明王朝にも認められた、懐の大きな足利義満らしい「様々な身分・格式・文化の折衷」。これが、北山文化の特徴です。

東山文化は、そんな北山文化の影響を強く受けています。

大きな違いは、禅宗の影響をより強く受けているところ。「わび・さび」の精神にも通じる、無駄なものを省き簡素で研ぎ澄まされた趣が大きな特徴となっています。

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