室町時代戦国時代日本の歴史

時の権力者すべてに仕えた「細川幽斎」の人生をわかりやすく解説

戦国時代は、ひとりの主君に仕え続けることが美徳でした。しかしその一方で、家を守るために主君を次々と変えることもまたやむなしとされていたのです。細川幽斎(ほそかわゆうさい)は、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の権力者すべてに仕えましたが、彼は時流を読む力を持っていただけでなく、その教養深さで窮地を救われた武将です。世の中の酸いも甘いも知り尽くした彼の人生を、紐解いてみましょう。

室町幕府の幕臣として、将軍擁立に奔走

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細川幽斎は、室町幕府幕臣の三淵氏に生まれ、細川氏の養子となりました。13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)に仕えるようになった彼ですが、義輝が暗殺されたことで運命が動き始めます。義輝の弟・足利義昭を救出した彼は、各地を転々としながらも義昭の将軍擁立に奔走することとなったのでした。

実は将軍落胤説も!?

天文3(1534)年、細川幽斎は室町幕府将軍に仕える三淵晴員(みつぶちはるかず)の二男として生まれました。後に仕えることになる織田信長とは同い年になります。異母兄は、同じく幕臣の三淵藤英(みつぶちふじひで)です。

実は、幽斎の出生には将軍落胤説がささやかれています。彼の母・智慶院(ちけいいん)は、12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)から三淵晴員に下げ渡されており、この時すでに幽斎をみごもっていたのではないかというものです。あくまで噂の域を出ませんが…。

足利義輝に仕え、細川藤孝を名乗るように

天文9(1540)年、7歳になった幽斎は、細川元常(ほそかわもとつね)の養子となります。元常の子・晴貞(はるさだ)の養子だったとも言われることもありますし、諸説ありますが、養子に出たことは間違いないようです。

そして、13代将軍・足利義輝に仕えるようになった幽斎は、元服の際、義輝が当時名乗っていた「義藤(よしふじ)」の一文字を与えられ、「細川藤孝(ほそかわふじたか)」と名乗るようになりました。幽斎は出家後の名前なのですが、ここでは「幽斎」で統一させていただきます。

永禄の変で主君が殺されてしまう

当時、室町幕府の権威は衰え、将軍でさえも都から追われることもありました。将軍・足利義輝もまた同じ目に遭っており、将軍と幕府の権威を取り戻そうと政治に取り組んでいたのです。

しかしそれは、当時、将軍以上の権力を持つようになっていた三好長慶(みよしながよし)との対立を生むことを意味していました。その三好長慶が亡くなると、重臣の三好三人衆松永久秀(まつながひさひで)が力を持ち、義輝を排除しようと動き始めたのです。

そして永禄8(1565)年、三好三人衆と松永久秀の息子・久通(ひさみち)らは、義輝を襲撃し、殺害してしまったのでした。これが「永禄の変」というクーデターになります。

この時、義輝の妻や母も共に亡くなり、僧となっていた弟までもが殺されてしまいました。三好三人衆の手はもう一人の弟・覚慶(かくけい)にも及び、彼を幽閉してしまったのです。

亡き主の弟を救出するが、各地を転々とする

幽斎や兄・三淵藤英らは、義輝亡き後、将軍を継ぐのは残された覚慶だと考えていました。そのため、彼らはすぐに動き、覚慶を救出してみせたのです。この覚慶が、後に還俗し、最後の室町幕府将軍・足利義昭(あしかがよしあき)となる人物ですね。

義昭を救出したとはいえ、三好三人衆らが天下を牛耳る状態は続いており、依然として危険であることは変わりありません。そのため、幽斎は義昭を連れ、近江(滋賀県)の六角義賢(ろっかくよしかた)や若狭(福井県南部)の武田義統(たけだよしむね)、越前(福井県北部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)など有力戦国武将のもとを転々としたそうです。

流浪の日々を続けた義昭は、後に「貧乏公方」と呼ばれることがありましたが、この時の幽斎や義昭の状況はまさにそうだったようですよ。灯籠の油さえ買えないほどに困窮し、時には神社の社殿から失敬したこともあったとか。

明智光秀や織田信長との出会い

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なかなか義昭を上洛させられずにいる中、幽斎は明智光秀と出会い、彼を通じて織田信長を知ることになります。そして、義昭は信長に守られて上洛を果たし、ついに将軍の座につきました。しかし、信長と義昭の仲が悪化するにつれ、幽斎は主を変えることを決心します。そして彼が選んだのは、織田信長だったのでした。

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