ペリー来航で高まる外圧
幕末の日本は世界を分割しつつあった欧米列強の帝国主義に飲み込まれようとしていました。東アジア一の大国だった清はイギリスとのアヘン戦争やアロー戦争に敗北。すぐれた科学技術力を持つ西洋列強によって植民地にされようとしていたのです。欧米列強の中で植民地獲得で出遅れていたアメリカは日本に目を付けました。
ペリー艦隊の来航
1853年、ペリーは浦賀沖に軍艦を引き連れて来日しました。アメリカ東インド艦隊の司令長官だったペリーはアメリカのフィルモア大統領から親書を預かります。親書の内容は日本に鎖国をやめて開国するよう求める内容でした。
かつて、ロシアのラクスマンが開国を求めて幕府と交渉しましたが幕府は開国を拒否。一時は異国船打払令で外国船を無条件に砲撃する過激な命令まで出していました。
その後、アヘン戦争やアロー戦争の情報を聞いた幕府は強硬路線はかえって外国との戦争に発展しかねないと考え、異国船打払令を緩和し困った外国船には燃料や食料を与えると方針転換。しかし、鎖国をやめないという方針に変わりはありませんでした。
ペリーの仕事はかたくなに鎖国を続ける江戸幕府を「あらゆる手段を使って」開国させることだったのです。
老中阿部正弘の対応
時の老中首座は阿部正弘でした。老中首座というのは、何人かいる老中の中でトップという意味です。当時、江戸幕府の政治は老中たちの話し合いで決められていました。その中でも、責任者にあたるのが老中首座です。
阿部はオランダなどから得た情報から、ペリーは今までの交渉相手と違うということをつかんでいたのかもしれません。以前なら受け取ることすら拒否した国書を受け取り、翌年の回答を約束したのです。
時間を稼いだ阿部は諸大名の意見を聞いたり、品川に台場(砲台)をつくったりしてペリーの再来航に備えました。また、阿部は朝廷にもペリー来航を報告。今までのように幕府で全て決めるのではなく、全国の大名や朝廷も巻き込んでペリーと交渉しようとしたのです。同時に今まで禁止していた大型船の建造も許可。徐々に体制を整えていきました。
日米和親条約の締結
ペリーは丸一年待つつもりはありませんでした。ペリーの初来航は1853年の6月。再来航は1854年の1月です。幕府の想定よりもはるかに速い来日でした。
アメリカは太平洋で盛んに捕鯨を行っています。マッコウクジラの油(鯨油)をとることが目的でした。当時の捕鯨は一年がかりの長期に及びます。その間の補給港として日本の港を開港させるのがアメリカの目的でした。
また、メキシコとの戦争でカリフォルニアを獲得したアメリカは太平洋を渡って清と貿易することが可能になります。その時にも日本は中継地点として利用できると考えていたのでしょう。
交渉の結果、1854年に日米和親条約を締結。下田と箱館を開港するとともに、アメリカに最も有利な条件を認める最恵国待遇を盛り込んだ条約となりました。幕府はイギリス・ロシア・オランダとも同じ内容の条約を結びます。こうして、江戸幕府の鎖国は解かれました。
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混乱する幕府政治
開国を主導した老中首座の阿部正弘は病気のため政界を退きます。かわりに老中首座になった堀田正睦はアメリカ総領事ハリスによる貿易要求をかわすことができませんでした。一方、13代将軍徳川家定の健康状態が悪化。後継者をめぐる争い、いわゆる将軍継嗣問題がおきつつありました。高まる外圧、混乱する後継者争い。その二つを同時に解決する人物として井伊直弼が登場します。
ハリスの通商条約締結要求
阿部のあとをついで老中首座となったのが堀田正睦でした。その堀田に対してアメリカ総領事のハリスはしきりに通商条約の締結を求めます。
ハリスはアロー戦争で清がイギリスとフランスの連合軍に大敗し、不平等条約を結ばされたことを材料として交渉。このままどの国とも通商条約を結ばず、中途半端な態度をとれば、イギリスは日本に攻め込み不利な条約を結ばされるかもしれないと主張したのです。
堀田はハリスが求める通商条約締結の要求に困っていました。当時の日本では、外国を追い払えという攘夷論が盛んだった時代。諸大名や朝廷は貿易に反対でした。
特に難色を示したのが孝明天皇です。事態打開のため堀田は自ら京都に乗り込みますが、孝明天皇をはじめとする条約反対派を説得することはできません。