幕末日本の歴史江戸時代

マジメさと責任感が招いた会津の悲劇?「松平容保」の生涯をわかりやすく解説

会津藩のその後

会津戦争の結果、謹慎を解かれた会津藩士たちは転封を余儀なくされました。現在の青森県むつ市にあたる斗南藩です。東北地方の中で最も北に位置し、厳しい気候風土の中で彼らは辛酸を舐めたといいます。

1871年からは容保も斗南藩へ預けられ、ようやく翌年になって蟄居を許されました。その後は東京へ移り住み、1893年に小石川の自邸にて59年の生涯を終えました。

しかし薩長と会津との遺恨は消えずに残ることになりました。西郷隆盛ら不平士族たちが反乱を起こした西南戦争では、多くの旧会津藩士たちが志願兵となって鹿児島へ出征したといいますし、薩摩出身の大久保利通が暗殺された際も、旧藩士たちは「天誅だ!」と大いに喜んだといいますね。

ほんの30年ほど前に、山口県萩市から会津若松市へ姉妹都市締結の打診があったそうですが、会津若松市側は拒絶したそうです。

それだけではありません。東日本大震災に際して、萩市は歴史的関係のある会津若松市に対して救援物資を送っています。その返礼として会津若松市長は萩市を訪問していますが、「決して戊辰の和解に赴くのではない。」と明言しているほどです。

松平容保は貧乏くじを引いたのか?

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幕末の激動期にあって、幕府と朝廷を守るために奔走した松平容保。しかしその行く先は会津藩の破滅という結果に終わってしまいました。容保がもう少し奔放な性格だったら?臆病な性格だったら?もしかしたら歴史は変わっていたのかも知れませんね。マジメで責任感が強いゆえに貧乏くじを引いてしまったわけですが、そんな彼を悪く言う人は意外に少ないといえるでしょう。彼もまた日本の未来を守るために戦った志士に違いはないわけですから。

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明石則実