幕末日本の歴史江戸時代

マジメさと責任感が招いた会津の悲劇?「松平容保」の生涯をわかりやすく解説

朝敵となった会津藩

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公武の安寧のためにひたすら奔走した容保でしたが、孝明天皇の死と共に彼の運命もまた変転することになりました。やがて朝敵となってしまった容保の新たな戦いが始まります。

将軍家茂と孝明天皇の相次ぐ死

長州が敗れ去って京都が平穏を取り戻した時、幕府や朝廷、諸侯らが安心する中で容保は独り釈然としませんでした。

「長州はいったん負けたとはいっても本国には大きな戦力がある。ここで将軍の権威を見せつけねば幕府の威信は取り戻すことができまい。

そこで江戸に対して「今こそ将軍家ご進発あるべし」と催促。将軍の威をもって長州を屈服させようとしたのです。ところが幕閣の反応は非常に鈍いものでした。それどころか容保の動きを煙たがる者まで現れる始末。ようやく将軍家茂は上洛したものの、またすぐに江戸へ帰りたがる有様で、容保をますます苦悩させるのでした。

いっぽうで長州側はのらりくらりと藩主の上洛要請や処罰をかわし、着々と戦備を整えます。イギリス商人から数千挺の銃を買い付け、秘密裏に長州藩からの援助を受け、幕府との対決姿勢を顕わにしたのでした。

1866年6月、ついに「長州征討」と名付けられた戦端が開かれました。戦術や指揮系統の不備に加え士気の上がらない幕府軍は各地で敗れ、醜態を晒してしまいます。たかが一藩の戦力にも勝てない幕府の無能ぶりが明らかになったのでした。

7月20日、将軍家茂が急死し、戦況に進展が見られないまま休戦せざるを得なくなりました。京都守護職に就いているがために精強な会津兵を率いて参戦することもままならず、容保はさぞかし歯がゆい思いだったことでしょう。

やがてその年の12月、今度は孝明天皇が崩御してしまいます。心強い後ろ盾を二人も失ったことで、容保の運命もまた急転していくのです。

憔悴のまま会津へ帰国

長州征討の失敗により幕府の権威は地に堕ち、その求心力もまた低下していきました。こうなってくると薩摩藩土佐藩など幕府を見限って独自の動きをする藩も出てきます。特に薩摩藩は長州藩と結託して、武力による倒幕を目指すようになったのです。

第15代将軍として就任した徳川慶喜もまたその流れを止められず、1867年、土佐藩主山内豊信の献言に容れて大政奉還に踏み切りました。幕府が持っていた執政権を朝廷に返上するというものですが、慶喜には打算がありました。

執政権を返上するといっても内政や外交に疎い朝廷には手に余るはず。どのみち徳川家を頼りにせねばならないはずで、朝廷を抱き込みつつ政治権力を握り続けようという思惑があったのです。

大政奉還によって幕府が消滅したのち、王政復古の大号令によって、まるでお役御免と言わんばかりに容保はその職を解かれました。昨日の敵だった長州兵や薩摩兵が続々と京都へ入京し、容保は慶喜と共に大坂城へ入城します。

もちろん薩長は武力による旧幕府勢力打倒をあきらめたわけではありません。江戸などで頻繁に挑発を繰り返し、旧幕府側の暴発を誘っていたのです。

1867年12月、庄内藩が江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたのを皮切りに、京都の南郊にあたる鳥羽・伏見など各方面で大規模な軍事衝突が起こりました。「鳥羽伏見の戦い」と呼ばれる戦闘ですが、旧幕府側は屈辱的な敗北を喫し、慶喜に対して追討令が出されるに及んで、ついに朝敵となってしまったのです。

容保は慶喜とともに大坂を脱出し、海路江戸へ向かいます。やがて2月16日には容保(会津)とその弟定敬(桑名)を朝敵とする勅令が下るに及んで、信じられないことが起こりました。

ここまで行動を共にし、守り続けてきたはずの慶喜が手のひらを返すような態度で臨んできたのです。自らの保身のために容保らに江戸城登城を禁じ、追放を命じてきたのでした。

幕府と朝廷を守るために病身を押してここまで奮闘してきた容保にとって、この仕打ちは無念の思いだったことでしょう。いったい自分は何のために戦ってきたのか?昨日まで京都守護職だった者が今日は朝敵になるなど思いもよらないことだったに違いありません。

憔悴しきった容保は、家臣たちと共に会津への遠い遠い道のりを帰ることになったのです。

会津戦争

東北地方の盟主的立場だった会津藩に対して、東北諸藩は非常に同情的でした。薩長を中心とする新政府は会津藩と庄内藩への征討を命じますが、降伏嘆願書を繰り返して提出するなど会津藩のために奔走しました。

しかし長州藩にとって会津はまさに仇敵ともいえる存在で、恨み骨髄に達した以上は許されるべくもありませんでした。

結局、新政府側はこれを一蹴。開戦やむなしと考えた東北諸藩は1868年5月、奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と対峙します。こうして東北での戦いが始まったのです。

しかし早くも7月には磐城平三春長岡などの諸藩が降伏。戦火はいよいよ会津にも迫ってきました。やがて8月中旬~下旬にかけて会津軍は母成峠の戦い戸ノ口原の戦いと相次いで敗れ、会津若松城への籠城を余儀なくされてしまいました。

会津若松城は天下に知られた堅城で、2ヶ所に敵を殲滅するための巨大な馬出を設けるなど防備は鉄壁でした。しかし戦国時代さながらの戦術では通用しても、近代戦には弱点を露呈してしまうことになるのです。

最新式の大砲は会津若松城の天守すら直撃するほど威力は絶大で、城内の建造物に大きな被害を与えていきました。また人的損失も甚大で、会津兵がいかに士気が高くても戦力差は如何ともしがたい状況となっていったのです。

籠城して1ヶ月後の9月22日、ついに会津藩は降伏。容保もその身柄を東京に移されることになりました。

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