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不抵抗将軍とよばれた張学良が起こした「西安事件」を元予備校講師がわかりやすく解説

1936年12月、驚きのニュースが世界中を駆け巡りました。中華民国の指導者である蒋介石が、中国西部の古都西安(せいあん)で部下の張学良によって監禁されたというニュースです。いったい、なぜ張学良は蒋介石を監禁したのでしょうか。そこには、中国全体でまとまることで、中国東北部である満州から中国本土へと進出をはかる日本に対抗するべきだとする張学良の考えがありました。今回は西安事件の背景、発生、その後について元予備校講師がわかりやすく解説します。

西安事件の背景

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西安事件の発生前、中国では蒋介石率いる中国国民党・国民政府と、毛沢東率いる中国共産党が国の主導権をめぐって争う国共内戦が繰り広げられていました。1931年、日本は満州事変を起こし、この地を支配していた張学良の勢力を駆逐します。満州事変後も日本は華北分離工作などを行い、中国本土への浸透を図っていました。

国共分裂と蒋介石による北伐

1924年、国民党の指導者孫文は、各地を支配する軍閥に対抗するため共産勢力と手を結びました。第一次国共合作です。1925年に孫文が死去すると、蒋介石が国民党のリーダーとなりました。

当初、蒋介石は孫文の方針を継承し、共産勢力と共闘していました。しかし、1927年、上海クーデタを起こした蒋介石は共産勢力を国民政府から排除。国共分裂となりました。共産党を排除した蒋介石は上海の浙江財閥と連携し国民党軍を強化します。

蒋介石は上海クーデタによって中断した北伐を再開しました。1928年、蒋介石は北京に到達し北伐は一応の完成を見ます。

一方、国民政府を追われた共産党は江西省の山間部にある瑞金に立てこもって蒋介石軍に抵抗しました。

張学良の易幟

1928年、東北地方を支配していた軍閥の張作霖は蒋介石の北伐軍と戦い敗北します。張作霖は日本の支援を受けていた軍閥でした。北京を維持できないと考えた張作霖は列車に乗って満州へと引き上げます。

北京から撤退する途中、張作霖が乗った列車が爆破され、張作霖は死亡しました(張作霖爆殺事件)。張作霖の跡を継いだ息子の張学良は、日本軍から従うよう圧力を受けます。しかし、張学良は日本軍の圧力に屈しませんでした。

張学良は北京を制圧した蒋介石と接触を図ります。1928年12月、張学良は中国国民政府に帰順しました。このとき、張学良軍は張作霖時代に使っていた北洋軍閥の五色旗を降ろし、中国国民党の青天白日旗を掲げます。掲げる旗を変えたという意味で、張学良の帰順を易幟といいました。

満州事変の勃発とヨーロッパ歴訪

満州にある南満州鉄道を警備していた関東軍の参謀たちは、張学良を満州から追い出し日本が満州を占領しようと画策します。

1931年9月18日、満州の中心地である奉天郊外の柳条湖南満州鉄道の線路の一部が爆破されました。関東軍は、爆破を張学良の部隊によるものだと断定。関東軍は満州の各地を武力制圧していきます(満州事変)。

関東軍の参謀たちが張学良排除を実行したのは、張学良が南満州鉄道を圧迫する新しい鉄道を作ろうとしたからでした。関東軍の不意打ちともいえる攻撃に対し、張学良軍はほとんど抵抗することなく兵を引きます

満州撤退後、張学良はヨーロッパを歴訪しました。張学良はイタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングと面会。ヨーロッパでファシズムを目の当たりにした張学良は、中国にも継世リーダーが必要だと確信したのかもしれません。

日本による華北分離工作

満周辺の翌年、日本は清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を執政とする満州国を成立させました。

現地に駐屯する日本軍は、日本の権益をさらに拡大するため、河北省・チャハル省・綏遠省・山西省・山東省を中国から分離させ、日本の影響下に置くことを画策しました。日本によるこのような動きを華北分離工作といいます。

華北分離工作を進めたのは、北京議定書によって北京や天津に駐留が認められた日本軍(支那駐屯軍)でした。

1935年、支那駐屯軍の梅津美治郎司令官は国民政府の華北軍事責任者だった何応欽に対し河北省の中国軍撤退と抗日活動の禁止を要求します。何応欽がこれに応じる(梅津・何応欽協定)と、1935年11月に殷汝耕(日本に留学経験のある中国人政治家)を代表とする冀東防共自治政府という傀儡政権を打ち立てました。

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