幕末日本の歴史江戸時代

新選組十番組長・槍の名手「原田左之助」とは?その生涯をわかりやすく解説

原田佐之助(はらださのすけ)は、松山藩から脱藩し新選組創設に繋がる近藤勇の道場「試衛館」の門を潜り、新選組初期メンバーとなった人物です。佐之助は、池田屋事件を始め、芹沢鴨の暗殺や禁門の変など、新選組の重要事件には必ずといってよいほど参加しています。

1.伊予の暴れん坊「佐之助」の生い立ち

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原田佐之助は、短気で傲慢、オッチョコチョイ!熱血漢で純情な男だったようです。体は筋肉質で逞しく、眉目秀麗な容姿を持ち親衛隊がいたほどとか。負けず嫌いの佐之助は、伊予松山藩時代の自分の居場所に満足せず脱藩をしています。

1-1原田佐之助の誕生

佐之助は天保11(1840)年に、伊予松山藩松平隠岐守勝善城の北東にある矢矧町(現:愛媛県松山市緑町)で、足軽の原田長次の嫡男として誕生しています。諱は忠一です。長次には3人の子供がおり佐之助は2番目で、天保13(1842)年には佐之助と違い温厚で無口だった弟の半次が生まれています。

頭の回転が速く反骨心旺盛で読み書きもできた佐之助は、父と同じで一刀しか腰に差せない中間という身分に不満を持っていました。安政2(1855)年の数えで16歳の時に江戸詰めとなり、現在の港区三田にある松山藩中屋敷に勤めます。時には両刀を差し、目付役の一人内藤房之進役宅への使いもしていました。

当時9歳だった房之進の子で助之進(俳人内藤鳴雪)の遊び相手となり、内藤家の人々に可愛がられたようです。後に鳴雪は、「怜悧で、美男子だった」と語っています

ちょっと雑学

2万坪以上の敷地を有する松山藩の江戸屋敷は、かつて忠臣蔵の赤穂浪士の内、大石内蔵助の息子主税らが預けられ、この中屋敷で切腹したという歴史上重要な場所です。

1-2腹には切腹の跡が…

佐之助は、北方謙三の『水滸伝(すいこでん)』に登場する宋江の従者「李逵(りき)」のようなキャラクターだったようです。そんな、佐之助の気性の激しさを象徴する有名なエピソードをご紹介しましょう。

原田家の家紋は「丸に一文字」です。佐之助のお腹にも、一文字の古傷がありました。頑固でいじめを受けやすい性格で、上役に「切腹の作法も知らない下司下郎」と揶揄われ、頭に血が上り「それなら切腹して見せてやる!」と本当に腹を切った時の傷です。当の上役は真っ青になり逃げ、他の上役が急いで止めるも、血だらけの佐之助は「俺の腸を奴に食わせてやる!」と息巻いていたようです。

若年ながら気位の高い佐之助は、先輩に対して逆らう傾向があり、年上の中間たちから傲慢な態度を憎まれていたとか。佐之助は藩内の問題児だったようです。

ちょっと雑学

新選組入隊後もこの切腹の痕ははっきり残っており、「死に損ねの佐之助」とのあだ名を付けられています。しかも、「俺の腹は金物の味を知っている。お前らのような蚤も食わねぇ奴とは違うんだ!」と自慢していたとか。

1-3佐之助脱藩す

藩地松山に帰った安政3(1856)年ごろは、内藤房之進の姉の夫「中島隼太」に若党として仕えます。不条理な身分制度に反発心を抱いており、中島所有のオランダ式の縦隊操練に使う太鼓を持ち出し、下帯だけの裸で太鼓を打ち鳴らしながら、御堀端の道を行進したのです。切腹騒動もこの頃に起こしており、太鼓の奇行には狙いがあったようです。

自分の勝手で縦隊操練の太鼓を鳴らすことはご法度。その上、裸で行進という反道徳的な行動をすれば、藩を追放されることは十分に考えられました。佐之助はこの追放刑を利用し、安政5(1858)年に19歳で松山から出奔したと思われます。所謂確信犯ですね!佐之助の不満は、身分制度だけでなく、藩が新しい洋式軍制を取り入れないことも原因でした

2.運命は新選組へと…

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笹谷康之投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

新選組は個性派揃いで、人気者は沖田総司、土方歳三、それに次ぐのが、原田佐之助です。脱藩後は大坂で槍を学び、江戸で近藤勇の道場の食客となりました。浪士隊の公募で京に上洛し、新選組の創設メンバーとなります

2-1槍術の免許皆伝!大坂へ行く

脱藩後は大坂に留まり、備中(岡山県西部)松山藩出身の谷三十郎と万太郎の兄弟から種田流槍術を学びます

伊予松山藩も古くから種田流槍術を流儀としており、佐之助も師家について学んでいたようです。入門後は、万太郎に学び種田流槍術の免許を取得。免状はありませんでしたが、新選組一の槍の名手と呼ばれる力を身に付けます。

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