ムッソリーニの少年時代
ムッソリーニは1883年7月29日、イタリア王国エミリア=ロマーニャ州ドヴィア地区に鍛冶職人の長男として生まれました。
ちなみに、ムッソリーニの本名であるベニート・ムッソリーニのベニートはメキシコ合衆国の初代大統領で独立の英雄のベニート・フアレスにちなんでいるんだとか。
ムッソリーニはとても優秀な人物であり、子供の頃から学業で優秀な成績を修めていました。
しかし、ムッソリーニはこの頃深刻化していた身分による待遇の違いや社会問題がありながら、人類皆平等も言っている教会の発言に疑問を持ち始め、たびたび問題行動を起こす問題児として退学処分をする羽目となりましたが、転校先では優秀な成績で卒業したそうです。
イタリア社会党のメンバーの1人に
イタリアを動かした人物となったムッソリーニの行動の原理となったのが鍛冶屋をしていた父親でした。父親は無神論者なうえに政治活動にも熱心な人物でして、父の考えである「政治がある目的は社会の正義の実現のため」というもの。この考えはその後のムッソリーニの政治体制に強く影響を受けるのですが、そして師範学校時代に読書などによって教養を高める一方で、社会主義を唱えているイタリア社会党の支持者として演説の場で堂々と持論を語る名演説家としても有名となっていきます。実はムッソリーニは元々は社会主義者であったのですね。
その後、ムッソリーニはスイスにて労働組合の事務局長として活躍して生きながら労働組合に参加したおかげで1903年国外追放処分を受けてたり、兵役期間を逃れたとして逮捕されたりするなど抵抗運動を行なっていったのですが、最終的には兵士として兵役に参加して、兵役の退役後は元々優秀であった才能を生かして再び小学校の教員として子供を教えながら社会党の地方誌の編集長などに抜擢されるなど地道にコツコツと政治活動を行なっていくように。
しかし、ムッソリーニがコツコツと活躍していくうちにイタリアに転機がおこることになります。
第一次世界大戦とムッソリーニ
第一次世界大戦が起こった1914年。
イタリアは元々統一した時にまだイタリア領となっていなかった領土を取り戻すためにイギリス・フランスと同じ協商国として参戦。
イタリアの第一次世界大戦が始まりました。
しかし、これに対して反対活動を行ったのがムッソリーニの参加していたイタリア社会党。
しかし、ムッソリーニ自身は参戦したい上にイタリアが参戦するための活動を行っていきます。
その結果平和維持を図っていたイタリア社会党からムッソリーニは除名。
ムッソリーニは志願兵として第一次世界大戦に参戦。途中で怪我をして離脱しますがその時にのちの主君となる国王にも出会うなど彼の人生の糧となる出来事が多く起こりました。
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ファシズム活躍の開始
第一次世界大戦はイタリアが参加した協商国側が勝利したお陰で「未回収のイタリア」と呼ばれていた地域をほとんど確保。イタリア統一後の夢を果たしたのですが、イタリア国民からしたら頑張った割には領土が少ないと感じており、また賠償金が取れなかったことがきっかけで社会主義運動の動きが高まっていくなど政情はどんどん不安定となっていきました。
ムッソリーニはそんな中1919年に戦闘ファッシをミラノにて結成。元々は社会主義の色が強かったのですが、1920年には社会主義的な考えを一掃してローマ帝国時代の偉大なるイタリアを目標とした国家社会主義の色が強くなっていき、今のファシストの原型が作られていくように。
さらに、社会主義的な考えを一掃したおかげでこの当時ストライキが相次いで困り果てていた資本家の支持を受けることができて1921年各地の国家社会主義の団体を統合。そしてついにムッソリーニは全国ファシスト党の党首として君臨するようになったのでした。
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ローマ進軍
全国ファシスト党は一定数の支持を得て議席も獲得するほどになりましたが、ムッソリーニが目指しているファシズムは反議会、反民主主義の政党。なんとかして議会を停止してファシズム政権を樹立したいと考えていたムッソリーニはなんと政権を獲得するためにクーデターを起こすことを決意。ファシスト党の軍隊であった黒シャツ隊を集めてイタリアの首都ローマを占領することを画策。
1922年10月27日にこの計画は実行され、ミラノから進軍した4万人の軍隊が一斉にローマに入城。一か八かの大勝負だと思いスイスへの亡命を考えていたムッソリーニでしたが、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世はこの土壇場でムッソリーニに組閣命令を指示。
社会主義が広がっていたイタリアにおいて国王からしたら「社会主義国家となってロマノフ家みたいになるぐらいならムッソリーニに託す」と思ったことでしょう。
まさしく大勝利をつかんだムッソリーニは直ちに待機していたミラノからローマに移動。
合法的に首相に就任して2年後の1924年総選挙では全議席の3分の2を占める大政党へと成長を遂げたのでした。
こうしてローマ進軍を成功させたムッソリーニの影響はヨーロッパへと広がり、ドイツではアドルフヒトラーによるミュンヘン一揆。ポーランドでは五月革命の勃発などのようにファシズム運動が活発化していくことになったのです。
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徹底的な独裁体制の確立
こうしてイタリアの首相に就任したムッソリーニ。彼がまず行なったのが選挙法の改正でした。
首相に就任した当時は批判を避けるためにある程度の憲法の遵守や、連立内閣という形で他の政党との協調も行なっていたのですが、1923年に選挙法を大幅に改正して今後の選挙では選挙の結果全体の25%以上の得票を集めて与党となった政党が全議席の3分の2を獲得し、残った議席を野党に得票率に応じて分配するとなりました。もちろんこの頃のイタリアの与党はファシスト党。ファシスト党による一党独裁制というファシズムの重要な目標を目指しての改正でした。
もちろんこの選挙法の改正は野党の批判を浴びることになりましたが、翌年に行われた1924年の総選挙ではファシスト党による弾圧もあったおかげでファシスト党は66%の得票率を獲得し自動的に議会の3分の2の議席を手に入れたのです。
そして選挙が行われた後もファシスト党による独裁体制を強固なものにするために様々な策を作り、社会党の議員が暗殺された事件にムッソリーニが関与したという噂が流れた時には開き直る形で独裁宣言を行い、イタリアの議会は停止。さらにムッソリーニ暗殺事件も起きたことで全ての野党が廃止に追い込まれていきついにイタリアはファシスト党による一党独裁となったのでした。
ファシズム政権とムッソリーニの政策
こうして達成されたイタリアにおけるファシスト党のファシズム政権。しかし、ムッソリーニはヒトラーと比べるとあまり非難されることはなく、今でも公然と支持があるなどある程度の人気はありました。
一体どうして彼は人気がある政治家となっていったのでしょうか?次は彼が行なった政策について見ていきましょう。