中国の歴史

中国史上最大の成り上がりにして独裁者「朱元璋(洪武帝)」の生涯について解説

世の中には色々な形で下克上や成り上がりをした人がいます。日本で言えば豊臣秀吉などがこれにあたりますが、実はお隣である中国も秀吉のような下克上を果たして一番上まで登り詰めた人物がいたのです。 今回はそんな中国の秀吉とも言える存在である朱元璋について解説していきたいと思います。

皇帝になる前の朱元璋

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朱元璋は270年もの間中国を支配してきた明王朝の初代皇帝としても有名なのですが、彼の凄いところはたった1代にして何にもない状態から皇帝に成り上がったことでした。

日本においては豊臣秀吉が成り上がりの代名詞として有名なのですが、中国王朝の中では農民から皇帝にのし上がったのは2人いました(前漢の劉邦と朱元璋)が、特に朱元璋は本当に貧農から身を起こしていきます。

果たして朱元璋はどの様にして明王朝を樹立していったのでしょうか?まずは朱元璋の前半生についてみていきましょう。

極貧の農民の八男として

朱元璋は1328年に安徽省鳳陽県の農民の八男として生まれました。

伝承によると朱元璋が生まれる時に家全体が明るく光ってのちの彼の活躍を暗示する様な伝説が残っていますが、彼が生まれた時中国では元による政治混乱によって各地で飢饉が横行。朱元璋の両親や兄などはこの飢饉によってこの世を去ることになります。

朱元璋は飢え死する前に家族の勧めなのか口減らしなのかはわかりませんが皇覚寺という寺に出家して托鉢僧となってなんとか今日生きるか死ぬかのところをさまよっていたとされていました。とは言ってもこんな飢饉の時に満足な托鉢を受けれるはずもなく僧侶ながらもその実態はほとんど乞食みたいな生活だったそうです。

ちなみに同じく農民から皇帝にのし上がった劉邦は農民の出ではあったものの、不自由なく生活できる自作農の出であり、彼のような乞食みたいな生活は送っていませんでした。

しかし、朱元璋は寺に出家していたためある程度の読み書きはでき、そしてこの寺での生活が良くも悪くも彼の人生を大きく変えていくのです。

白蓮教徒による紅巾の乱

1351年。この年元の圧政に耐えかねた白蓮教の教徒たちが華南を中心に一斉に蜂起。

頭に紅い布をかぶっていたため紅巾の乱と呼ばれるこの一大反乱によって彼が身を寄せていた皇覚寺は焼失してしまいます。

ついに身を寄せるところすら無くしてしまった朱元璋。それならいっそのこと紅巾の乱に参加しようと反乱の一派であった郭子興の配下になるために必死に懇願。

彼の才能を見抜いた郭子興は彼を配下とすることに決め、朱元璋は彼の配下の武将としてメキメキと頭角を現していくようになりました。

ちなみに、この時から朱元璋は同じく農民から皇帝となった劉邦に憧れる様になり、彼と同じ様な行動をすることになります。

1355年に彼を取り立てた郭子興が亡くなると、朱元璋は彼の軍隊と戦死した彼の子供の軍隊を吸収。一大反乱勢力となった軍を率いて南京を占領し、江南と呼ばれる地域を支配していく様になります。

華南の統一と明王朝の成立

南京を占領したのち、朱元璋はこれまでお世話になった紅巾の乱の反乱勢力と袂を分かち中国で最も豊かだといわれています華南の統一を目指していく様になります。

朱元璋は鄱陽湖の戦いに勝利したことによって江南のほとんどを統一。呉王と名乗り華南の覇権に王手をかけます。さらに同じ頃に勢力を誇っていた張士誠も11ヶ月に渡る包囲戦に勝利したことによって滅亡。紅巾の乱の指導者もだまし討ちして鎮圧すると朱元璋は1368年の正月に南京にて明王朝の成立を宣言。

40年前には貧農の八男坊であった人がついに皇帝として中国の歴史に名を刻むことになったのです。

中国の統一

こうして華南を統一して明王朝を成立させた朱元璋でしたが、まだこの頃には大都を中心に元の勢力がまだ健在でした。

朱元璋は元において内紛が起こっているという情報をききつけると20万の大軍を家臣に預けて北伐を敢行。そもそも定住という概念があまりなかった元の支配層はあっさりとこれまで首都として機能きていた北京を捨て、カラコルムに逃亡。1368年に大都を占領して華北も統一します。また、紅巾の乱の残存兵力であった四川地方の大夏国も滅ぼし1381年に中国を統一。

北宋以来騎馬民族によって占領されていた華北の土地を取り戻し、漢人による統一王朝を成立させたのでした。

洪武帝の政策

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こうしてただの農家の八男坊から皇帝にまでのし上がった朱元璋。彼は大明帝国を築き上げるとその初代皇帝として洪武帝と名乗り始めます。しかし、彼は皇帝になる前とは打って変わり人を粛清して自らに権力を集中させていくようになりました。次は洪武帝がどのような政策をしていったのかについて見ていきましょう。

手厚い民政と独裁権力の確立

洪武帝は元が貧農の生まれだったこともあり、農民の辛さや苦労が分かっていた皇帝でもありました。そのため洪武帝は農民の生活をより良くするために農業に重きをおく重農政策を打ち出します。洪武帝は農民の生活を苦しめている大商人を弾圧。大商人や地主の財産を没収してその代わりに新しく手に入れた僻地へと追放ししました。また、洪武帝は貨幣流通の掌握のために貨幣の材料となる銀山などを掌握。民間における銀の使用を禁止しました。

一方で農民に対してはこれまで農民の悩みの種であった商税を廃止。戸籍台帳や土地台帳を作って、適正な納税を行えるようにして大商人によって虐げられてきた零細な商人の保護も行います。また農業の命とも言える治水事業にも力を入れ、国に関わっている役員を総動員して堤防の修繕を行い全国で4万の堤防を復旧させました。

国の仕組みの方はというと洪武帝はこれまで政府の中枢にいた官僚を徹底的に排除する政策を打ち出して中書省という組織を廃止したのを始め、隋の頃から置いていた三省六部を有名無実なものとして皇帝に全ての権力が集中する仕組みを作ったのです。

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