中国の歴史

アヘンを取り締まった優秀な地方官僚「林則徐」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

19世紀の初め、清王朝の全盛期に君臨した乾隆帝が崩御しました。乾隆帝の死は、清王朝の衰退の始まりでもあります。各地で起きる農民反乱に加え、自由貿易を求めるイギリスなどの圧力が日増しに強まってきました。また、英国が清に密輸するアヘンは、清の社会を徐々にむしばみます。皇帝である道光帝は気鋭の官僚である林則徐にアヘン取り締まりを命じました。今回は、アヘン取り締まりに活躍した清末の官僚林則徐と、アヘン戦争についてわかりやすく解説します。

18世紀末から19世紀初頭の清王朝

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17世紀から18世紀にかけて、清王朝は3人の名君による長期統治で繁栄の絶頂を迎えました。康熙帝、雍正帝の後を受けて即位した乾隆帝は、清王朝の領土を最大まで広げます。乾隆帝の死後、小作農が地主に抵抗する抗租運動が多発。弥勒下生信仰にもとづき、現政権打倒を目指す白蓮教も流布しました。これを鎮圧するべき清朝の軍事力である八旗は弱体化し、役に立たないことが判明します。

乾隆帝の政治と制限貿易

1735年、雍正帝の死にともない乾隆帝が即位しました。乾隆帝は周辺諸国に対し積極的に攻撃を仕掛け征服。中国にとって最大の脅威であるモンゴルに対しては、主要部族であるジュンガル部を討伐し支配下に収めます。また、1759年には中央アジアのトルキスタンを征服し新疆(新しい領土)として編入しました。

国内では『四庫全書』を発行させ、学問を盛んにします。しかし、清王朝に対する批判は許されず、弾圧されました。大規模な庭園建築も乾隆帝時代の特徴ですね。

外交面では、18世紀半ばに産業革命を達成し、製品の売り場を探していたイギリスは中国と貿易を拡大しようとしましたが、乾隆帝は貿易を広州1港に限定。しかも、特権商人である公行に貿易を管理させたため、イギリスは思うように利益を上げられませんでした。イギリスは自由貿易を目指し、乾隆帝と交渉しますが失敗に終わります。

納税に苦しむ農民と白蓮教の信仰拡大

18世紀末、乾隆帝治世の末期、清王朝は長年の平和のため人口が4億人にまで増加していたといわれます。新大陸原産のトウモロコシやサツマイモ、ジャガイモや落花生などが導入されることで食料生産力が上がりました。それによって、人口が一気に増加する人口爆発が起きたのでしょう。

しかし、農地は人口増加のペースに追いつかず、徐々に食糧事情は悪化。農民の生活も苦しくなっていきました。農民たち、特に、地主から土地を借りて交錯する小作農は地主に納める小作料の減免を求め、抗議運動を展開しました(抗租運動)。

社会が不安定化する中、人々の信仰を集めたのが白蓮教でした。白蓮教は人々が現政権に抵抗するときの心のよりどころとなります。そのため、明も清も白蓮教を弾圧しました。

白蓮教徒の乱であらわになった清朝正規軍(八旗・緑営)の弱体化

乾隆帝の治世末期、白蓮教が勢力を拡大しました。官僚の腐敗や白蓮教と弾圧に名を借りた悪徳官僚たちの収奪に対する人々の怒りが白蓮教の勢力拡大の源となります。

1796年(嘉慶2年)農民たちは白蓮教徒の指導により大規模な反乱を起こしました。反乱は陝西省、四川省、河南省、甘粛省など全国各地に拡大します。

白蓮教徒は、この世が乱れた時に弥勒菩薩が現世に降り立ち民衆を救ってくれると説きました。もし、志半ばで倒れたとしても、阿弥陀如来のいる極楽浄土に往生できるとも説きます。来世が保証されると信じた白蓮教徒たちは死を恐れず果敢に戦いました。

一方、白蓮教徒を鎮圧する立場の清王朝正規軍(八旗・緑営)は長期間の平和により弱体化。反乱軍にまともに太刀打ちできません。清王朝はやむを得ず、漢人の地方有力者である郷勇の力を借りて反乱を鎮圧しました。

林則徐の登場とアヘン取り締まり

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世の中が白蓮教徒の乱や北京で起きた天理教徒の乱で騒然としていたころ、福建省生まれの林則徐は科挙試験に合格。官僚への道を歩み始めました。林則徐は地方官を歴任する中でイギリスが持ち込むアヘンの害毒を目の当たりにします。林則徐は地方でアヘン取り締まりを実行するとともに、道光帝にアヘン禁輸の上奏を行いました。林則徐の主張の正しさを認めた道光帝は林則徐をアヘン取り締まりの特別大臣に任命します。

林則徐のプロフィール

林則徐は1785年8月30日に福建省閩侯県に生まれました。福建省は中国南東部に位置し、ウーロン茶の産地としても有名です。対岸にある台湾と密接な関係を持ち、台湾出身者が多く居住する省ですね。

林則徐の父は国家公務員試験である科挙に何度も挑戦しましたが失敗。地方の貧しい教師として暮らします。父の志を継いだ林則徐は猛勉強を重ね、27歳で科挙に合格し進士となりました。

官僚となった林則徐は地方行政で成果を上げます。林則徐が力を入れたのは農村の再建でした。中でも、農業生産と深くかかわる治水問題で林則徐は成果を上げます。それと同時に、不正を行う地方官僚を容赦なく処断しました。

地方官僚・政治家として林測徐が問題視したのはアヘンの流入です。1837年に湖広総督(湖北省と湖南省の行政最高責任者)として赴任した林則徐は管内のアヘンを根絶道光帝にアヘン禁輸を訴えました

アヘンの害とイギリスによるアヘン密輸

林則徐が根絶を主張したアヘン(阿片)とはどのようなものだったのでしょうか。アヘンは罌粟(けし)の実からとれる麻薬で、本来は鎮痛・鎮静作用を持つ医薬品として用いられていました。しかし、アヘンには常習性があり、大量に摂取すると昏睡や呼吸困難を引き起こしました。

では、なぜ、清王朝でアヘン患者が増大したのでしょうか。それは、イギリスが清王朝にアヘンを密輸したからです。イギリスと清王朝との貿易では、イギリスが一方的に茶を購入するだけで、赤字でした。清王朝はイギリス製品に興味を示さなかったからです。そこで、赤字を補うため、ひそかにアヘンを密輸。莫大な利益を上げていました。

19世紀に入ると、アヘンの密輸量が増大し中毒患者が急増。大量の銀が流出したこともあって、清王朝ではアヘンを禁止すべきだとする主張が強まりました。

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