イタリアヨーロッパの歴史

世界のお騒がせ主義「ファシズム」の思想をわかりやすく解説

今ではヨーロッパにおいて禁止されており、自由が阻害されている国や元枢軸国を非難するときによく聞くファシズム。しかし、ファシズムという思想はこれだけでは片付けられない思想であり、その裏には複雑な歴史がかくれていたのでした。 今回はそんなファシズムはどんな思想だったのかを歴史や採用した国などを見ていきながら紐解いていきましょう。

ファシズムとは一体どんな思想だったのか?

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第二次世界大戦において枢軸国と呼ばれた国々が採用していたファシズム。日本語では国家社会主義や全体主義とも言われています。

ではまずはそんなファシズムがどんな思想だったのかを見ていきましょう。

ナショナリズムと保守的な考え方

ファシズムの基本的な思想であり、大事な部分。それは国家を第一に考える過剰なナショナリズムにありました。

そもそもファシズムという言葉の語源がイタリア語で束という意味であり、ファルケスというローマ帝国における権力者の象徴から来ており、その通りファシズムは束のように国を中心として国家を束ねようとした言ってしまえば独裁を容認した思想だったのです。

例えばファシズムの代表例であるドイツでは自由主義は否定されて、ヒトラー率いるナチス党に服従するように命令しました。

そしてドイツはこのファシズムを掲げてドイツを中心とした千年王国を、イタリアは古代ローマ帝国の再興を最終的な目標としていたのです。

権威主義体制

ファシズムのもう一つの特徴。それは国家の指導者に対する権威主義な考えでした。ムッソリーニは自身の本にて『ファシズムは個人では弱い存在の人物を国家ごと一つに統合して全ての価値を引き出す』という風に書いており、それを統一するのが国のトップだったのです。

つまりは国のトップの言っていることは絶対。例えどんなに無茶苦茶なものであっても国民である限りは従わなければならなかったのでした。

例えばドイツだとフューラー(総統)、イタリアだとドゥーチェ(総帥)、スペインだとカウディーリョ(統領)などが代表例として挙げられています。

共産主義の否定

ファシズムの特徴の一つに共産主義が大嫌いということがありました。ファシズムって日本語に直すと国家社会主義ですし、さらにはムッソリーニはかつてはレーニンとともに共産主義革命を推し進めていこうとしていたのですから仲が良いと思うかもしれませんが、ファシズムという思想は国家を最優先としているため、労働者に構ってはいられません。さらにいえば共産主義という思想は世界革命論といって全ての国で共産主義を巻き起こそうという国際主義的な考え方も同時に持ち合わせていました。

そのため、ファシズムと共産主義というのは全くそりが合わない思想であり、このソリの合わなさがのちに独ソ戦という形で爆発することとなるのです。

ファシズムの歴史

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ファシズムが台頭した国。それは全て第一次世界大戦で敗れるか、パッとした戦果をあげられなかった国がほとんどだったのです。

そこで次はそんなファシズムがどのようにして誕生していき、そしてどうしてこの思想がどのようにして国を作っていったのかを見ていきましょう。

イタリアの混乱

ファシズムが起こったのは1907年ごろのイタリア。実はファシズムの歴史はドイツではなくイタリアで始まったのでした。

ファシズムがイタリアから始まった理由の一つとしてこの頃のイタリアは国内を統一したばかりであり、さらには隣国との関係が良好ではありませんでした。さらにファシズムが生まれてから7年後の1914年には第一次世界大戦が勃発。イタリアは最初はドイツやオーストリア中心の同盟国として参戦していたものの、オーストリアとの対立によって連合国に鞍替え。最終的には戦勝国となり、これまでの課題であったイタリア古来の領土でありながらイタリアのものになっていなかった『未回収のイタリア』を見事に手に入れたのでした。

しかし、第一次世界大戦による被害はイタリアも例外なく甚大なもので、国内は戦後の復興や不安で大混乱となっていき、イタリア各地で労働者までによるストライキが勃発していき、国が立ち行かなくなってしまいます。そしてその社会不安がファシズムという恐ろしい思想を信じるようになる最大のきっかけとなっていったのでした。

ムッソリーニによるローマ進軍

 

労働者が各地で暴れていた1919年。この年イタリアの運動家であったムッソリーニは各地のファシスト組織を統合して『イタリア戦闘者ファッシ』を結党。ストライキの根幹である共産主義と真っ向から対峙していき、労働者のストライキによって多額の損害を受けていた経営者からどんどん支持されていくようになります。

さらに、国民の中にも「強い政府が欲しい!」と思っていた人はイタリア国内にかなりおった模様で1921年には党員数が25万人を突破。党名も党らしい『ファシスト党』へと改名して勢力を蓄えていったのでした。

そしてその勢いのまま1922年にムッソリーニは一斉蜂起。イタリアの重要都市を一気に占領してローマへと向かいます。これを受けて当時のイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世はファシスト党の勢力とローマでの流血を回避するためにムッソリーニを首相にすることを容認。ムッソリーニは10月30日にローマに到着してローマ進軍と呼ばれることになるこの出来事によってファシスト党は政権を奪取したのでした。

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