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不抵抗将軍とよばれた張学良が起こした「西安事件」を元予備校講師がわかりやすく解説

西安事件の発生

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日本軍による華北分離工作が本格化しても、蒋介石は日本と正面から戦おうとしませんでした。蒋介石は日本の侵略は皮膚病のようなものだが、共産党は内臓の病だとして共産党の討伐を優先します。毛沢東攻撃のため西部に派遣されていた張学良は、いつまでも抗日に立ちあがらない蒋介石に対し、西安事件を起こして方針転換を迫りました。

毛沢東の長征と蒋介石の追撃

蒋介石による上海クーデタで国民政府を追われた共産党は、江西省の瑞金を根拠地として国民政府軍と戦います。1931年11月、中国共産党は瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を樹立しました。臨時政府主席に就任したのが毛沢東です。

一方、蒋介石は共産党をせん滅するため軍の主力を共産党攻撃に投入。共産党軍に大打撃を与えます。1934年、毛沢東は蒋介石軍の攻撃をかわすため、瑞金を放棄することを決定。西北部にある陝西省に本拠地を移すことにしました(長征)。

瑞金から陝西省の延安までおよそ12,500キロメートル。出発した時には86,000を数えた共産党軍(紅軍)は、1年の難行軍の間に8,000人にまで減少しました。長征の途中、遵義会議で毛沢東が共産党軍の実権を完全に把握。ソ連のコミンテルンの指導から離脱しました。

張学良の不満と蒋介石の思惑

満州事変で本拠地を失った張学良は、国民党軍の一員として蒋介石が行う共産党討伐作戦に従事していました。共産党が根拠地を西北部の延安に移すと、張学良は西北部の中心都市である西安に駐屯します。

1936年5月、共産党軍と戦っていた張学良の下に、共産党が抗日民族統一戦線を提案してきました。張学良は共産党の提案に同調。共産党の有力者である周恩来と極秘に接触します。

張学良としては、自分の根拠地である満州が日本に奪われて4年以上経過するのに、日本に対して全く手を打たない蒋介石の態度に業を煮やしていたのかもしれません。

他方、蒋介石としては日本と共産党の両方を相手取ることは不可能。より重要(と蒋介石が考えていた)な共産党討伐を完成させて後、日本と対峙しようと考えていました。二人の思惑の違いが、西安事件につながったのではないでしょうか。

西安事件の発生

1936年、蒋介石が張学良を督戦するため西安にやってきました。蒋介石は張学良軍では共産党の討伐はできないと考え、他の軍団を西安に差し向けようとします。

督戦にやってきた蒋介石に対し、張学良は中国共産党との内戦を停止し、抗日戦線を組むべきだと主張しました。しかし、蒋介石はこれを拒否します。

蒋介石は12月10日の会議で張学良の解任を決定しました。蒋介石の考えが変わらないことを確認した張学良は第十七路軍の楊虎城とともに蒋介石が宿泊していた華清池の五間庁を襲撃します。

事態の急変を知った蒋介石は護衛官とともに裏山に逃げますが、張学良の配下に発見され捕らわれの身となりました。張学良らは蒋介石に対し、内戦の停止や挙国一致内閣の組織、政治犯の釈放など8項目を要求します(西安事件)。

西安事件後の中国と張学良のその後

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捕らわれの身となった蒋介石は、旧知の周恩来や妻の宋美齢の説得に応じ、張学良が要求する8項目を渋々承諾します。国民党と共産党は抗日戦線をつくる協議を開始。第二次国共合作が成立しました。1937年に始まった日中戦争では、国民党軍も共産党軍も日本と戦いました。抗日民族統一戦線のきっかけを作った張学良は、蒋介石の監視下に置かれ、50年以上にわたって軟禁され続けます。

蒋介石の解放と第二次国共合作

軟禁された当初、蒋介石は張学良の要求する内戦の停止などについてかたくなに拒否しました。蒋介石の軟禁を知った妻の宋美齢は西安に入ります。西安入りした宋美齢は頑なに妥協を拒否する夫を説得しました。

また、張学良は共産党の周恩来に蒋介石説得のため、西安に来るよう要請します。周恩来はかつて国民党が作った士官学校である黄埔軍官学校で蒋介石の部下として働き、蒋介石と旧知の仲だったからでした。宋美齢と周恩来は蒋介石を説得。張学良が出した8項目を受諾させます。

その後、国民党と共産党は戦闘を停止し、抗日民族統一戦線が形成の話し合いが持たれました。張学良が実力行使をしてまで蒋介石に方針を転換させたことで、中国が一致団結して日本と戦う体制が整います

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