中国の歴史中華民国

不抵抗将軍とよばれた張学良が起こした「西安事件」を元予備校講師がわかりやすく解説

日中戦争の始まり

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が武力衝突する盧溝橋事件が発生しました。同時に、日本軍は上海でも戦闘を開始(第二次上海事変)。中国軍と全面的に衝突する日中戦争がはじまりました。

日本側は抗日民族統一戦線を過小評価します。杉山陸軍大臣は昭和天皇に対し、戦争は2か月で終わるとの見通しを示しました。しかし、実際には1945年8月まで続く長期戦となってしまいます。

日本軍は沿岸部を中心に主要都市の占領を進め、国民政府の首都である南京を占領しました。しかし、蒋介石は内陸部の重慶に移動し抗日戦争を続行します。

共産党は国民政府軍の8路軍として日本軍の輸送部隊や小部隊を攻撃し後方をかく乱しました。日中戦争は1945年8月15日の日本降伏まで続きます。

張学良のその後

西安事件で蒋介石を軟禁し、抗日民族統一戦線の構築にこぎつけた張学良。事件後、彼はどうなったのでしょうか。

解放された蒋介石は張学良を反逆罪によって逮捕。首都の南京に連行します。張学良自身も、事件を起こした責任を取るとして自ら進んで軍法会議にかけられることを望みました。

国民政府内部では、張学良を死刑にするべきだという意見もありましたが、命は助けられ懲役10の判決が下されました。1937年1月4日、張学良は特赦を受けましたが、軟禁状態は継続されます。

日中戦争中も、各地を転々としつつも軟禁状態が続けられました。1945年から1949年まで行われた第二次国共内戦に敗れた国民党は台湾に逃げ込みます。張学良も台湾に移され軟禁が継続されました。張学良が軟禁を解かれたのは1980年代になってからです。

最後まで、西安事件の詳細について語ることがなかった張学良

Chang Shueliang.jpg
Central Archive Press – The history of ROC in mainland, パブリック・ドメイン, リンクによる

1990年、張学良はNHKの取材を受けました。インタビューの中で張学良は西安事件について詳細に語ることはしませんでした。しかし、張学良が起こした西安事件が蒋介石の態度を変え、抗日民族統一戦線の結成を促したことは明らかです。2001年に張学良が死去した際、中国共産党の江沢民総書記は「偉大な愛国者」として丁重な弔電を送りました。歴史の転換点を作った張学良は胸の内を語ることなく、この世を去ります。

1 2 3
Share: