中国の歴史

キリスト教徒の大反乱「太平天国の乱」をわかりやすく解説

清の末期には色々な内乱が起こりましたが、その中でも大規模なものだったのが太平天国の乱でした。今回はそんな太平天国の乱について見ていきたいと思います。

内乱を起こすまで

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清末期には外国による干渉が横行していましたが、この外国の干渉によって清の国民の生活は貧窮していくようになります。

そんな中、1人の若者が太平天国の乱を引き起こすことになるのでした。

夢破れた青年の覚醒

太平天国の乱のリーダーとなる洪秀全。この男はじつはもともと科挙合格を目指して勉学に励む青年でした。

科挙という制度は隋の時代から脈々と受け継がれられてきた役人の採用試験で、日本で言うところの国家公務員試験のような者でした。

しかし、科挙という試験は日本の大学試験や国家公務員試験などと比べるとはるかに難しく、段階を踏んで様々な試験に挑まなければならず、洪秀全も科挙の前段階にあたる試験に落第してしまいました。

長年挑み続けた科挙を合格できなかったショックからかこの世の終わりのような気分で寝込んでいたところある夢を見ます。

その夢の内容は「洪秀全が品の良いお爺さんから剣を授けられ、さらに中年の男から妖怪退治の手助けをしてもらう」というもので、怪しいながらもただの夢とも思え内容なものだったのです。

そしてもう最後にもう一度だけ試験を受けに行ったとき、その道中にてプロテスタントの勧誘パンフレットをもらったのでした。このパンフレットを渡された洪秀全は、その内容を見て仰天。なんと夢と同じような人がいたのです。洪秀全は「夢で見たあのお爺さんは神様で、あの中年の男はイエス・キリスト様だったのか!」と変な形で勘違いしてしまった洪秀全は試験を自ら辞退。

そしてキリストから特別な力を与えられたと信じこんだ洪秀全はキリスト教とは違う異端の宗教の偶像を破壊し始めるという暴挙に出ます。

周りの人や家族からは錯乱状態に陥ってしまったと感じたそうですが、このように科挙に絶望してとんでもない方向へと向かう人は中国の歴史の中では珍しいことではなく、この科挙の制度を通して反乱を起こしてしまうのです。

拝上帝会の結成

そんなこんなでキリスト教と自分が体験したことを広めるために1847年に洪秀全たちは拝上帝会という組織を作ります。

この拝上帝会は洪秀全を中心としたキリスト教の宗教団体ですが、本来キリスト教では神やキリストを拝むのが基本ですが、拝上帝会ではリーダーであり神の子・イエス・キリストの弟である洪秀全の言うことを聞け!というものでカトリックやプロテスタントとは全然違う異色なものだったのです。 

このままではいろんなところから総スカンを食らうところになるのですが、この頃の清はボロボロ。

アヘン戦争に敗れ、香港などの領地を失い、さらには巨額の賠償金が課せられその賠償金の支払いは民衆に課せられた巨額の税金によって賄われていました。

そのため、民衆の生活はボロボロとなってしまい、この拝上帝会に全てを託す人も徐々にですが現れていくようになります。

そして結成してからしばらく経つとだいたい3000人ぐらいの信徒がいる中規模な宗教団体となり、政府に対しても疑問を持ち始めていくようになっていきました。

しかし、このようなキリスト教の布教は清にとっては邪魔以外の何者でもありません。清の政府は役人を派遣して拝上帝会の信徒を次々と捕縛。宗教そのものを潰してしまおうと考えていたのです。

しかし、洪秀全はそれに萎縮することはなく、民衆が苦しんでいるのは清のあの体たらくのせいなのに正しいことをしている俺らが捕まるのはおかしいとついに革命を起こすことを決意しました。

1847年の結成から3年の月日が経った1850年、拝上帝会は自らを守るために軍事組織化していくようになります。

信徒には度々軍事訓練を行わせていき武器の密造を始め虎視眈々と清政府の転覆をねらっていったのでした。

遂に革命へ

1850年7月、洪秀全は総動員令を出し、金田村に信徒を集め軍事訓練を施しながら武装蜂起の準備を進めていました。武器の密造なんて物騒なことを始め、周囲に情報が漏れないワケはなくついに政府軍と衝突。しかし広西省の清軍は人数が不足していたうえ、天地会の蜂起の鎮圧に大忙し。そのため拝上帝会は清軍に勝利をおさめることができたのでした。

この勢いに乗ったのか1851年に拝上帝会はいよいよ本格的に国家建設に乗り出します。太平天国という国号もこの年から使っていますが、それでもしばらくの間は他の賊とあまり変わらないゲリラ活動をしていました。

一方、洪秀全をトップとし、その下に東王の楊秀清、西王の蕭朝貴、南王の馮雲山、北王の韋昌輝、翼王の石達開という幹部が支える「五王体制」をとっていました。がその中でも特に東王の楊秀清の発言権が強くなっていき洪秀全の影が少しずつ薄くなっていきます。

南京陥落

正規軍は広大な国内に分散配置せざるを得ず、正面からぶつかる事も不可能な事態さえ起こりました。そして、大衆を吸収して膨れあがった太平天国軍は清軍を何度も打ち破ります。

しかし食料・火薬が底をついたため太平天国軍は永安を後にし、楊秀清の意見に従って北上し湖南省・湖北省を目指すこととなりました。清朝軍と衝突を繰り返しながら北上を続けることになります。

その途中で南王馮雲山と西王蕭朝貴が戦死しながらも、2月には漢陽・漢口が陥落。さらに1853年1月には湖北省の省都である武昌も陥落し、その占領によって多大な金銀財宝をもたらしました。そして楊秀清の意見により南京方面を目指すこととなり水陸両軍を編成して長江を下り1853年3月に太平天国軍は南京を陥落。ここを天京と改名して太平天国の王朝を立てました。

太平天国の構造

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太平天国の乱が巨大化した理由の一つにキリスト教的理想を掲げた地上の天国を作り出そうとしたことがありました。しかし、この考えは理想と現実は極めて離れたものでありました。

太平天国とキリスト教

太平天国の基本的な理念は洪秀全が独自に考えついたキリスト教にありました。太平天国では従来のキリスト教の考え方である神・イエス・聖霊を内容とする三位一体論を受容していた上に、ただ洪秀全をキリストの弟に位置づけていました。さらに人は神の前に平等であり、皆兄弟姉妹でありながら神である洪秀全を崇拝するという平等でありながら個人崇拝な思想をもっていました。

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