中国の歴史

中国を大きく変えたアヘン戦争はなぜ起きた?背景・経緯・結果をわかりやすく解説

中国では、何度も王朝が替わっており、そのたびに時代を変える戦いがありました。しかし、清の時代においておこなわれたアヘン戦争ほど中国を大きく変えた戦いはありません。清の弱体化はもちろん、欧米文明に対する遅れが明らかになり、外国の侵略を受けるようになってしまったのです。 このアヘン戦争について解説します。

アヘン戦争という中国を大きく変えた戦い

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中国の歴史は3千年以上ありますが、その間に多くの王朝が成立しては消えており、しかも北方民族によって打ち立てられた王朝もありました。そのため、王朝の変わる際には大きな長期間の戦いがおこなわれています

特に北方民族が侵略したときの戦いでは、中国に異民族の王朝を打ち立てられました。フビライによる「元」やヌルハチによる「清」の成立に際しては、幾度もの戦争がおこなわれたのです。しかし、それらの戦いは、異民族の支配によって中華文化が否定されたこともありましたが、あくまでも周辺国との戦争であり、中国自身を変えるような戦争ではありませんでした。

しかし、アヘン戦争というイギリスとの戦いは、遠いヨーロッパの異質な国との戦いとなったのです。アジアの覇権国としての中国王朝を揺るがし、自身の中華文明を揺るがした戦争の始まりとして重要な転機になった戦いでした。

この中国を変えたアヘン戦争という戦いがなぜ起こったのかについて見ていくことにします。

清の弱体化が明らかになった

清がアヘン戦争で負けるまでの中国王朝は、東アジアにおいては覇権国として絶対的な力を誇示しており、周辺国にとっては清が戦争に負けるということはあり得ない事態でした。特に、清は漢民族ではなく、北方民族の女真族出身であっただけに、漢民族に弱体化を示したことの影響は大きかったと言えます。

清は鎖国をしていたが実態は違っていた

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中国王朝では、清の前の明時代から鎖国政策がとられていたものの、実際には長い海岸線を監視することは難しいことでした。清にとっては、むしろ万里の長城でわかるように、北方民族の侵略に対する警戒感が強かったのです。鎖国であっても、商人たちを中心に、都から遠い南方や長江辺りまでの海岸線では外国との交易が盛んにおこなわれていました。

中国との交易相手は時代とともに変わった

当初、中国と交易していたのは、明時代初期には東南アジア諸国で、明への朝貢貿易の形でおこなわれていました。明自身も、鄭和が船団を率いてインド洋まで進出していたのです。

しかし、大航海時代(アフリカ喜望峰経由での航路の発見)を経て、次第にヨーロッパ諸国がアジアに進出し、東南アジアも植民地化されていきます。イギリス、フランス、オランダなどが中国との交易をおこなうようになったのです。ヨーロッパとは、もともとシルクロードを介して交易がおこなわれ、中東地域のイスラム勢力がその交易を仲介していました。それを大航海時代に、スペイン、ポルトガルがアジアに進出し、フィリピンなどを植民地化して、ヨーロッパ諸国が直接中国と交易をするようになったのです。

その後、ヨーロッパの情勢の変化によって、スペイン、ポルトガルに代わってイギリス、フランス、オランダなどがインドから東南アジアにかけて進出します。タイを除くほとんどの国が植民地化されてしまったのです。そして、それらの植民地を経由して広州などの中国の沿岸地域と交易をするようになっていました。特にインド、東南アジア西部を植民地化したイギリスの交易額は大きかったのです。

中国を変える戦いアヘン戦争の起きた背景

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清王朝時代の当初の三皇帝時代(康熙帝、雍正帝、乾隆帝)には、領土拡張意欲が強く、南方、台湾、西方などへの進出が盛んにおこなわれて国力も大きい時代でした。しかし、それ以降は、次第に国力を維持することで精一杯になり、国力はゆっくりと衰えていったのです。雍正帝以降、漢文化を否定し、女真族の辮髪などを強要しり、中国の書籍を燃やしたりした(文字の獄)ことから、漢民族の反発も強まり、国力はさらに弱まっていきました。なお、辮髪は清王朝の出自である女真族の髪型のことです。

ヨーロッパではその間に、産業革命が起こり、文明が大きく発展していました。しかし、公式には鎖国をしていたため、清王朝にはその西洋文明に対する情報は乏しかったのです。

欧州で起きた産業革命による文明の急進展

ヨーロッパでは、ルネサンス以降、自由主義が発展し、芸術だけでなく、印刷機、羅針盤など文明の礎になるものの発見もありました。羅針盤を利用した大航海時代を経て、イスラム勢力に支配されてきたシルクロード経由のアジアとの交易よりも、喜望峰を回って自身で船でアジア諸国との交易が増えたのです。そして、アジア進出とともに、植民地化も進みました。

ヨーロッパでは、さらに産業革命が起こり、進んだ産業基盤が作られ、生産力は大きく発展し、近代産業が目覚めていたのです。

ヨーロッパ列強諸国は産業革命による生産力拡大を植民地支配に生かした

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産業革命が進んだイギリスなどを中心に、高まった生産力を活かすために、新しいシステムが作られました。植民地で生産させた棉花、ゴムなどを輸入して、それを産業革命で生まれた大規模な生産設備で加工して最終製品に仕上げる方式が採用されたのです。大量生産によって生まれた製品を、他国や植民地、アジアなどの諸国に販売することで富を獲得するシステムが生まれました。

そのために、イギリスやフランスなどでは植民地拡張政策が強化され、インド、東南アジアのアジアやアフリカ全土への進出も盛んにおこなわれることになります。インドでは綿花の栽培、東南アジア諸国ではゴム栽培がプランテーションシステムによっておこなわれ、中国は最終製品の販売先となったのです。プランテーションは、植民地の農民を使って大規模に農業をおこなうことで、強制栽培といってもともと食物の自給栽培していた土地を強制的に産業用栽培農場に変えました。

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