三国時代・三国志中国の歴史

三国志屈指の名将「呂蒙」とは?無学で粗暴だった彼が一変智将となるまでをわかりやすく解説!

中国の歴史書「三国志」に登場する英傑の中には、貧しい身分から頭角を現した人物も少なくありませんでした。呂蒙(りょもう)もまた、貧しい家に生まれ、教養もなく粗暴だった男ですが、主の一言に発奮して勉学に励み、みちがえるほどの教養と落ち着きを身に着けました。後に孫権(そんけん)の呉陣営の中核を成す重臣となった彼の生涯を、わかりやすく解説していきたいと思います。

貧しい出自からのし上がるきっかけを掴む

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貧しい家に生まれた呂蒙は、満足な教育も受けることができずに成長しました。腕っぷしの強い少年で、上昇志向も強かった彼は、やがて義兄を頼って軍に身を投じます。そして出会ったのが、江東で急速に力を付けてきた若き武将・孫策(そんさく)でした。

貧しい家に生まれた少年・呂蒙

呂蒙が生まれたのは後漢末期の178年のこと。豫洲汝南郡(よしゅうじょなんぐん/安徽省阜陽市)の、貧しい家の出身だったそうです。当然ながら、満足な教育を受けられるような環境ではありませんでした。

しかし、呂蒙は少年時代から「貧しさから抜け出したい」という気持ちが強かったようで、姉の夫・鄧当(とうとう)が辺境の異民族・山越(さんえつ)討伐に参加すると、そこにこっそりとついて行き、見つかって叱られたものの、帰ろうとはしませんでした。そのことを母親に咎められると、まだ15歳だった呂蒙少年は、「貧しさから抜け出すためには、危険を冒してでも戦功を挙げなければならないのです!」と反論したそうです。意志の強さを感じさせ、後に大物になる予感さえさせる少年時代でした。

殺人事件を起こしてしまうが、主君・孫策と出会う

ただ、やはり呂蒙は精神的に未熟でした。裕福な家の子弟とは違い、教育を受ける機会にも恵まれていなかったからです。そしてある時、彼の年が若いことをバカにした相手を斬り殺し、逃亡してしまいました。しかしやがてツテを頼って自首します。

そんな事件を耳にし、呂蒙に興味を抱いたのが、孫策でした。

孫策は、父・孫堅(そんけん)からの地盤と軍勢を引き継ぎ、急速に力を伸ばしてきた若き軍閥の長でした。これと見込んだ相手をスカウトすることにも余念がなく、彼に見込まれた者たちは軒並み優秀で、その能力を開花させていたのです。

その孫策は、呂蒙に対して何らかの非凡さを感じ取ったのでしょう。彼を召し抱え、やがて鄧当が亡くなると、その任務を彼に引き継がせたのでした。

恵まれた武勇に知略を身に着けて脱皮!

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孫策の死後は孫権に仕えた呂蒙ですが、武功はあっても学問は苦手でした。しかし、孫権に後押しされ、彼はついに学問を始めます。努力の甲斐あって、学者顔負けの教養を身に着けた彼は、もう以前のような彼ではなくなっていました。同僚をも驚愕させた彼の変身ぶりを見ていきましょう。

着実に武功を重ねるも、相変わらず学問は苦手

200年には、孫策が刺客に襲われて負った傷がもとで若くして亡くなってしまいますが、呂蒙はその後を引き継いだ弟・孫権にも忠義を尽くして仕えました。多くの戦いに参加し、孫策・孫権兄弟の父である孫堅の命を奪った黄祖(こうそ)との戦いや、孫権と劉備が連合して曹操の大軍を打ち破った赤壁(せきへき)の戦いにも従軍しています。

しかし、輝かしい功績を軍事面で積み重ねていったものの、呂蒙には「学がない」という欠点が依然として存在していました。そのため、主君・孫権に対する報告なども、呂蒙が口述して側近が筆記していたといいます。

それを知っていた主君・孫権は、事あるごとに呂蒙に対して「学問をした方がいい」と言っていましたが、呂蒙は「忙しいのでそんな暇はありません」と答えるばかり。

それでも孫権は諦めませんでした。再び呂蒙に対し、「自分でも、忙しくても学ぶ時間があった。それならば、お前にできないはずがない。本をたくさん読み、学ぶのだ」と諭したのです。

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