教養歴史

職業は「天才」?!レオナルド・ダ・ヴィンチが残した凄すぎる業績の数々

レオナルド・ダ・ヴィンチとは何者だったのでしょう?「モナリザ」や「最後の晩餐」を描いた人物として知られていますが、ダ・ヴィンチは画家というわけではありません。他にも、天文学や物理学、解剖学、生物学など数々の分野で多大な功績を残しています。一体何者で、どんな暮らしをしていたのでしょう。誰もが知っているけれど実は謎の多い偉人「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の業績について詳しく解説します。

レオナルド・ダ・ヴィンチとは?その生涯を駆け足で解説

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1452年4月15日はレオナルド・ダ・ヴィンチが誕生した日です。この名前を知らない人はまずいないでしょうが、職業は?と言われると「はて?」と思ってしまう人も多いはず。画家として知られている彼ですが、画家として生計を立てていたのでしょうか。レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をたどってみたいと思います。

絵うますぎ!師匠に筆を折らせた青年期

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年、イタリアのトスカーナにあるヴィンチという小さな村でこの世に生を受けます。この一帯は当時、イタリアの名門・メディチ家が統治するフィレンツェ共和国の一部でした。

この村で暮らしていたころのダ・ヴィンチの様子については、詳しいことはわかっていません。幼少期から少年期の記述がほとんど残されていないところも、彼のミステリアスな部分につながっています。

14歳のとき、ダ・ヴィンチはフィレンツェの芸術家アンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入り。フィレンツェでは名の知れた芸術家で、ダ・ヴィンチの他にもペルジーノやボッティチェッリなどルネサンスを代表する芸術家たちがヴェロッキオのアトリエに出入りしていました。

ダ・ヴィンチはヴェロッキオのアトリエで、絵画や彫刻だけでなく様々な技術や学問を身につけていきます。20歳のころ、ダ・ヴィンチは師匠であるヴェロッキオとの合作で『キリストの洗礼』という絵画を制作。弟子であるレオナルド・ダ・ヴィンチの描く絵があまりにも優れていたため、ヴェロッキオは以後二度と絵を描くことはなかったとのエピソードが残されています。

器用貧乏?あれこれ手を出しすぎた円熟期

20代半ばごろからしばらくの間、ダ・ヴィンチがどこで何をしていたか詳しくわかっていない期間があります。1481年にサン・ドナート・スコペート修道院から『東方三博士の礼拝』という絵画の制作依頼が。しかし途中でダ・ヴィンチがフィレンツェを離れているため未完成の状態で終わっています。

1482年頃から、ミラノ公国に活躍の場を移し、1499年頃まで滞在していたようです。この間、あの有名な壁画『最後の晩餐』(サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画・1495年~1498年)を手掛けています。

ダ・ヴィンチは時の権力者・ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァからたくさんの依頼を受け、絵画、彫刻、建築など様々な作品の制作を手掛けました。

1502年にはイタリア北部のチェゼーナという街へ移り、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアに仕えて軍事技術者として働き始めます。チェーザレの命令で要塞の地図を作成し、土木事業などにも従事したそうです。『モナ・リザ』を描いたのはこの時代だったと言われています。

ついに!フランス王にれ認められた晩年の暮らし

1507年にダ・ヴィンチはフィレンツェに戻り、翌年、芸術家のグループ(ギルド)に参加しています。ここでフィレンツェ政庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の制作に携わりますが、このとき同じ室内の別の壁画を手掛けていたのがミケランジェロでした。

1508年にはミラノに家を購入し、イタリア各地を転々とする生活に終止符を打とうとしていたようです。

しかしダ・ヴィンチはまたも時の権力者に気に入られ、招かれます。1516年、フランス王フランソワ1世が自分の居城の近くの邸宅をダ・ヴィンチに与え、ダ・ヴィンチはこの館で、亡くなるまでの3年間を過ごしました。

1519年、レオナルド・ダ・ヴィンチはフランスの自宅で息を引き取ります。67歳でした。

<レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯>
1452年 フィレンツエ共和国のヴィンチに生まれる
1465年 ヴェロッキオのアトリエに弟子入り
1490年 ミラノ宮廷で活躍
1495年 「最後の晩餐」の制作に着手
1502年 チェーザレ・ボルジア指揮下で従軍
1503年 『モナ・リザ』の制作に着手
1516年 フランス王フランソワ1世に招かれる
1519年 フランス・ロワールの邸宅にて死去

レオナルド・ダ・ヴィンチが歩んだ栄光の道

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若いころからずば抜けた天才と言われてはいたようですが、世間から認められるようになるのはある程度歳を取ってからのようです。受けた仕事を放り出してフィレンツェを出て行ってしまうなど、謎めいた部分の多いダ・ヴィンチ。次に、残した功績をたどりながら、ダ・ヴィンチの素顔に迫ってみたいと思います。

意外!筆遅過ぎで残された絵画はおよそ20点

レオナルド・ダ・ヴィンチが生きた時代はルネサンス真っただ中。ルネサンスとはイタリアから各地に広まっていった、ギリシャやローマなど古代の文化を復興しようとする動きのことで、古くて新しい様々な文化芸術が誕生していきました。

文化芸術といっても、それだけで人が暮らしていけるわけではありません。芸術を好む権力者やお金持ちがいて、才能あるものを呼び寄せて作品を作らせる……それがごく当たり前のシステムでした。

もちろん芸術だけでなく、建築や土木事業、科学、文学など、権力者たちは自身の目的や趣味嗜好に合わせて、必要な知識や技術を持つ者を近くにおき、仕事をさせていたのです。

ダ・ヴィンチも、多くの権力者たちに呼ばれ招かれた技術者のひとりでした。彼はずば抜けた絵の才能を持っていましたが、土木や建築、科学など非常に多くの知識と技術も持ち合わせており、おそらく彼ひとりいれば、建物の設計から絵画の制作までひと通り事足りていたのかもしれません。

画家として評価の高いダ・ヴィンチですが、現存する絵画の数は非常に少なく、20点ほど。若いうちはあれこれいろいろなことをやっていたので絵画に時間を割くことができず、じっくり絵を描いていたのは晩年の数年のみであったとも言われています。

また、ダ・ヴィンチは筆が遅いことでも知られていました。残されている絵画は少ないですが、スケッチは数千枚残されていると言われています。じっくり構想を練ってスケッチを重ねて重ねて、結局描かなかった……そんな絵もたくさんあったのかもしれません。

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