イタリアヨーロッパの歴史

【5分で解説】レオナルドダヴィンチの業績・生涯・代表作品をわかりやすく総まとめ!

レオナルド・ダ・ヴィンチとは、15世紀半ばから16世紀初頭のイタリア・ルネサンスを代表する芸術家。「モナリザ」や「最後の晩餐」を描いたことでも知られています。その才能は絵画だけに留まらず多岐に渡っており、解剖学や天文学、土木、建築など多種多様な分野で開花。「万能の天才」と称されることもあります。いったいどんな人物だったのか?今回の記事では、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をたどりながら、その業績や代表作品についてわかりやすく解説いたします。

1.レオナルド・ダ・ヴィンチとは?いつ頃、何をした人?

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1452年4月15日はレオナルド・ダ・ヴィンチが誕生した日です。「レオナルド・ダ・ヴィンチ」という名前を知らない人はいないでしょうが、職業は?と言われると「はて?」と思ってしまう人も多いはず。画家として知られている彼ですが、画家として生計を立てていたのでしょうか。レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をたどってみたいと思います。

1-1.生まれながらの天才……師匠に筆を折らせた青年期

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年、イタリアのトスカーナにあるヴィンチという小さな村で、裕福な公証人の父親の私生児として生まれます。母親は農家の家の若い娘だったそうです。この一帯は当時、イタリアの名門・メディチ家が統治するフィレンツェ共和国の一部でした。

ダ・ヴィンチは14歳のとき、フィレンツェの芸術家アンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入りします。ヴェロッキオはフィレンツェでは名の知れた芸術家で、ペルジーノやボッティチェッリなどルネサンスを代表する芸術家たちも彼のの工房に出入りしていました。弟子入りして数年後、ダ・ヴィンチは師匠ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』や『受胎告知』を制作します。

このとき、ダ・ヴィンチの描く絵があまりにも優れていたため、以後、ヴェロッキオが絵を描くことはなかった、というエピソードは有名です。

1-2.大聖堂の壁画から要塞の地図まで~なんでもこなした円熟期

20代半ば過ぎ頃、ダ・ヴィンチは師匠のもとから独立し、画家として独り立ちします。独立してまもなく、フィレンツェにあるヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作の依頼があり、これに着手。1481年にサン・ドナート・スコペート修道院から『東方三博士の礼拝』という絵画の制作依頼があるなど、大きな仕事を次々とこなしています。しかし残念ながら『東方三博士の礼拝』は、製作途中でダ・ヴィンチがフィレンツェを離れているため、現在も未完成状態なのだそうです。

1482年頃にミラノ公国に移ったダ・ヴィンチは時の権力者・ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァからたくさんの依頼を受けて大活躍『最後の晩餐』や『岩窟の聖母』など現代にも残る作品はこの時期に制作されています。

1502年にはイタリア北部のチェゼーナという街へ移り、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアに仕えて軍事技術者として活躍要塞の地図を作成し、土木事業などにも従事したそうです。『モナ・リザ』を描いたのはこの時代だったと言われています。

1-3.紆余曲折・フランス王にれ認められた晩年の暮らし

1507年にダ・ヴィンチはフィレンツェに戻り、翌年、芸術家のグループ(ギルド)に参加しています。ここでフィレンツェ政庁舎の壁画『アンギアーリの戦い』の制作に携わりますが、このとき同じ室内の別の壁画を手掛けていたのがミケランジェロでした。

1508年にはミラノに家を購入し、イタリア各地を転々とする生活に終止符を打とうとしていたようですが、そんな天才を権力者たちがやすやすと隠居させるわけがありません。

1516年、フランス王フランソワ1世が自分の居城の近くの邸宅をダ・ヴィンチに与えます。ダ・ヴィンチはこの館で、亡くなるまでの3年間を過ごしました。この館は「クルーの館」と呼ばれ、現代ではフランスの世界遺産のひとつに数えられています。

1519年、レオナルド・ダ・ヴィンチは自宅で死去。67歳でした。フランソワ1世が最期を看取ったという説もあるのだそうです。

<レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯>
1452年 フィレンツエ共和国のヴィンチに生まれる
1465年 ヴェロッキオのアトリエに弟子入り
1490年 ミラノ宮廷で活躍
1495年 「最後の晩餐」の制作に着手
1502年 チェーザレ・ボルジア指揮下で従軍
1503年 『モナ・リザ』の制作に着手
1516年 フランス王フランソワ1世に招かれる
1519年 フランス・ロワールの邸宅にて死去

2.レオナルド・ダ・ヴィンチの業績とは?何がすごいの?

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現代においても、天才の名をほしいままにするレオナルド・ダ・ヴィンチ。そのすごさは、単に絵がうまいから、というわけではありません。いったいどんな功績があるのでしょうか。それでは次に、イタリア・ルネサンスを代表するアーティストであり、様々な分野で活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチの業績について見ていきましょう。

2-1.画家・土木工学・天文学・地質学・解剖学……「万能の天才」

レオナルド・ダ・ヴィンチのすごさ……それは「万能の天才」の一言に尽きるでしょう。

解剖学や生理学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学、さらには音楽や建築、数学の分野に至るまで、ありとあらゆるジャンルで才能を発揮していたダ・ヴィンチ。「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を持ち合わせ、人類史上最も多才であったと称されることもある偉人です。自然科学から芸術までひとつの分野に留まらず、多くの分野で成功をおさめたことこそ、ダ・ヴィンチの名が後世に語り継がれる最大の理由と言ってよいのかもしれません。

画家であったはずのダ・ヴィンチ。なぜこんなに活動の場が広がったのでしょう。「芸術」と「科学」というと相反するものと見られがちですが、少なくともルネサンス時代においては、あながち無関係でもありませんでした。CGなどない時代ですから、精密な絵を描く技術は引く手あまただったはず。ダ・ヴィンチのマルチな活躍も、考えてみればごく自然なことだったのかもしれません。

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