オーストリア継承戦争の背景
神聖ローマ皇帝カール6世には跡を継ぐべき男子がいませんでした。カール6世は、女子であるマリア=テレジアが円滑にハプスブルク家を相続できるよう、国事詔書を発布してマリア=テレジアの相続権を確保しました。その一方、オーストリアと同様、ドイツ三十年戦争で被害が少なかった新興国プロイセンは、存在感を増します。
マリア=テレジアが生まれたハプスブルク家
ハプスブルク家は13世紀から続く神聖ローマ帝国の名門。スイスの地方領主から始まり、オーストリア地方に進出します。
中世、ドイツを中心に成立していた神聖ローマ帝国の皇帝は諸侯の選挙によって選ばれました。1273年、ハプスブルク家の当主であるルドルフ1世は、諸侯の選挙によって神聖ローマ皇帝に即位します。ルドルフ1世は即位に反対したベーメン王オトカルを打ち破り、オーストリアの支配を確たるものにしました。
14世紀前半、スイスで起きた農民反乱により、ハプスブルク家はスイスにあった本拠地を失います。以後、ハプスブルク家の本拠地はオーストリアのウィーンとなりました。
15世紀前半、130年ぶりに神聖ローマ皇帝に返り咲いたハプスブルク家は、以後、神聖ローマ帝国滅亡まで皇帝位を独占し続けます。さらに、ハプスブルク家は婚姻政策によって勢力を拡大。カール5世の時代にはオーストリアとスペインの両方を支配する大国となります。
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国事詔書の発布
1711年、オーストリアのカール6世は、フランスのルイ14世とスペイン継承戦争を戦いました。この戦いはカール6世の優位に展開し、領土を拡大します。ハプスブルク家が繁栄する中、カール6世には大きな悩みがありました。後継者となる男児がいなかったことです。
ヨーロッパの王位継承は「サリカ法」に基づいて行われることが通例でした。サリカ法では、女子による土地相続や家督相続を禁じています。そのため、イギリスなど一部の例外を除き、女子の王位継承は認められてきませんでした。
カール6世はオーストリアの君主の位を長女であるマリア=テレジアに相続させるため、国事詔書(プラグマティッシェ=ザンクティオン)を発布し、女子でもハプスブルク家の家督を相続できるようにします。カール6世は各国に対し、国事詔書の内容を承認するよう働きかけを行い、原則、合意を得ました。
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プロイセンの台頭とフリードリヒ2世(大王)の即位
1701年、ハプスブルク家とフランスのブルボン家がスペイン継承戦争を戦いました。ドイツ東部を領有していたブランデンブルク=プロイセン選帝侯国はハプスブルク家に味方します。
この功績により、ブランデンブルク=プロイセン選帝侯国は王国に格上げされ、プロイセン王国となりました。
カール6世と同世代のプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、官僚制度を整備し、強力な軍隊を育成します。国家予算の半分以上を軍事費につぎ込んだフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は兵隊王とよばれました。
1740年、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の死去に伴い、フリードリヒ2世が即位します。フリードリヒ2世は、父が育てた強力な軍隊の力で、プロイセン王国の地位を向上させようとしました。
オーストリア継承戦争の経緯
1740年、カール6世が死去すると、国事詔書にしたがってマリア=テレジアが即位しました。しかし、マリア=テレジアのオーストリア君主位継承に対し、プロイセン王国やバイエルン王国、ザクセン選帝侯などが異議を申し立てます。プロイセン王国はシュレジェン地方の割譲を、バイエルン選帝侯とザクセン選帝侯は神聖ローマ皇帝の位を要求しました。マリア=テレジアは窮地に立たされますが、ハンガリー議会を説得して強力な援軍を得ることに成功します。
カール6世の死とマリア=テレジアのハプスブルク家相続
1740年、カール6世が死去すると長女のマリア=テレジアがオーストリア=ハプスブルク家を相続しました。女子の相続が認められていない神聖ローマ皇帝には、マリア=テレジアの夫であるロートリンゲン公フランツ1世を即位させようとします。
ところが、カール6世が出した国事詔書を承認していたはずの列国が、マリア=テレジアの即位に異議を唱えました。
プロイセン王フリードリヒ2世は、即位を認める代償としてオーストリア領のシュレジェンをプロイセンに譲るよう要求します。シュレジェンは鉱工業が発達した地域で、オーストリア領の中で最も富裕な地域だったからでした。
バイエルン王とザクセン選帝侯は、ハプスブルク家に適当な男子がないなら、皇帝の位は他の家に譲るべきだとして神聖ローマ帝国皇帝の位をマリア=テレジアに要求します。こうして、ヨーロッパで戦争の機運が高まっていきました。