ブルボン家の跡取り息子として
ルイ14世はフランスを支配していたブルボン家のルイ13世の息子として生まれました。
ブルボン家はアンリ4世によってフランス支配が開始してプロテスタントの信仰を認めてフランスの国力を増強。そしてついに王様が全ての実権を握るという絶対王政の幕が上がりました。
そんな中で生まれたルイ14世。ルイ14世が生まれた時にブルボン家の男子はルイ13世の弟しかいなかったため、最初から跡取り息子として育てられていき、4歳の時に父親のルイ13世がなくなるとそのままフランス国王に就任しました。
マザランとフロンドの乱
ルイ14世が4歳の時にフランス王になった時ヨーロッパでは三十年戦争という長きに渡る大戦争がクライマックスを迎え、フランスは一応の戦勝国として幕を閉じようとしていました。
この時に大活躍したのがルイ14世の宰相としてサポートしていたマザラン。マザランはその辣腕な外交手腕によってこれまで神聖ローマ帝国領の一つであったアルザス地方の割譲に成功。この時神聖ローマ帝国の皇帝についていたハプスブルク家の弱体化を成功させ、フランスの立場を上昇させることに成功しました。
しかし、三十年戦争による長きにわたる戦争によってフランス国民の重税も相まって国民からの不満が爆発。
1648年にフロンドの乱という貴族の大反乱が起こり、ルイ14世とマザランはこの反乱を鎮圧。貴族の没落は決定的なものとなり、最終的には絶対王政となる一つのきっかけとなったのでした。
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親政の始まり『太陽王の誕生』
こうしてフロンドの乱が鎮圧されたことによって貴族勢力の権力を削ぐことに成功したルイ14世とマザランでしたが、1661年にマザランが死去するとルイ14世はこれまでフランス王国の定番であった宰相を置くことをやめて王様による政治体制を確立。
新興貴族の登用によって完全に王様に権力が集中され、いわゆる絶対王政の時代に突入していくことになりました。
カトリック第一主義
ルイ14世は実は熱心なカトリック信者。
この頃になると宗教の支配はだんだん薄れていきましたが、彼が絶対王政を敷く根拠となった考えである王権神授説には一つの国家には一宗教が原則であるという考えを実現するために1685年にナントの勅令を廃止しました。
ナントの勅令というのは要するに「プロテスタントの信仰をある程度認めますよ」というものでユグノー戦争の時にアンリ4世によって発布されたものでした。しかし、プロテスタントという存在はカトリックが大多数を占めていたフランスでは不評だったそうで先代のルイ13世から弾圧が始まり、その延長線上としてルイ14世はナントの勅令を廃止。
この結果フランスはれっきとしたカトリック国家となりましたが、実はプロテスタントの大半が商人だったこともあってかナントの勅令の廃止によってフランスから国外逃亡。フランスの産業発展は遅れ、イギリスが産業の中心となっていく一つの要因となったのでした。
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