アメリカの歴史植民地時代

アメリカ建国に繋がった「フレンチ・インディアン戦争」を元予備校講師がわかりやすく解説

マリア=テレジアによる外交革命と七年戦争

オーストリア継承戦争はプロイセンの勝利に終わり、シュレジェン地方はプロイセンの手に落ちます。オーストリア継承戦争の雪辱を晴らし、シュレジェンを取り戻したいマリア=テレジアはルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人に働きかけ、歴史的敵国であるブルボン朝フランスと同盟を結び、共闘体制を組みました。この外交関係の一大変革を外交革命といいます。

マリア=テレジアは、ロシアの女帝エリザヴェータも同盟に引き込み、三枚のペチコートでフリードリヒ2世を包囲しました。

これまで、オーストリアと同盟していたイギリスは、オーストリアとフランスが同盟を組んだことを受け、プロイセンの支援に回りました。海外植民地問題でフランスと利害が対立するイギリスはあくまでもフランスと敵対することを選んだといってよいでしょう

フレンチ・インディアン戦争直前の北米大陸

アン女王戦争後、北米大陸の大西洋岸に大規模なイギリスの植民地がつくられました。北からニューイングランド植民地群、中部植民地群、南部植民地群に区別することができます。

これらを13植民地と総称しました。家族単位で植民することが多いため、フランス植民地よりも多くの人口を抱えます。フレンチ・インディアン戦争の開戦時には150万人の入植者がいました。

それに対し、フランス植民地であるヌーベルフランスは13植民地よりも広大な土地でしたが、人口ははるかに少なく開戦時のフランス系住民は7万5千人ほどです。フランス人たちは原住民であるインディアンと交易することを主な目的としていました。

ルイ14世時代、フランスはヌーベルフランスの人口増加と産業振興を図りますが、イギリス植民地ほど成功しません。

フレンチ・インディアン戦争の始まり

1750年代の前半、フランスがヌーベルフランスでの支配を強化したことにより、インディアンやイギリス植民地と緊張関係に入ります。1754年、イギリス植民地とヌーベルフランスは戦闘状態に入りました。フレンチ・インディアン戦争の始まりです。

のちに、アメリカ初代大統領となるワシントンはヴァージニア市民軍の大佐としてオハイオ渓谷に進入したフランス軍と戦いました。この戦いがフレンチ・インディアン戦争の引き金となります。

フレンチ・インディアン戦争という名は、イギリス側から見て「イギリスがフランス人やインディアンと戦った戦争」という意味ですが、インディアンはフランス側にもイギリス側にもいたので、どちらかといえば巻き込まれたといったほうが実情に合っているでしょう。

戦争の終結とパリ条約

フレンチ・インディアン戦争がはじまると、フランスもイギリスもインディアンを味方に引き込もうと積極的に工作を始めます。

このころ、ヌーベルフランスやその周辺にはインディアンの有力な五部族がいました。彼らはイロコワ(イロコイ)連合を結成しています。フランス人たちはイロコワ連合と毛皮などの取引を行っていたため、彼らを味方に引き込もうとしました。

イギリスはインディアンの女性を妻としていたウィリアム=ジョンソンを通じてイロコワ連合の一つであるモホーク・インディアンと友好関係を結び、イロコワ連合に中立の立場を取らせることに成功します。

戦いは、当初フランス軍が優位でした。しかし、イギリス本国の首相ピットが北米植民地での戦争に力を入れるよう指示したため、徐々にイギリス優位に傾きます。

1759年にケベック植民地が、1760年にモントリオール植民地が陥落することでフランスの敗北は決定的となりました。1763年に結ばれたパリ条約で、フランスは北米領土のほとんどを失います

フレンチ・インディアン戦争後の北米大陸

image by PIXTA / 1968840

1763年に結ばれたパリ条約により、フランスはヌーベルフランスにあたるカナダとミシシッピ以東のルイジアナを失いました。フレンチ・インディアン戦争の勝利で、イギリスは北米での覇権を確かなものにします。しかし、莫大な戦費は英仏両国の財政を圧迫しました。イギリスは13植民地に重税をかけ、独立戦争を招きました。フランスはアメリカ独立戦争への参戦などもあり、財政が極端に悪化。フランス革命の遠因となりました。インディアンたちは、新たに成立したアメリカ合衆国との戦いに敗れ土地を失います。

戦費負担をめぐって対立した13州植民地とイギリス本国

フレンチ・インディアン戦争は、ヨーロッパの七年戦争やインドのプラッシーの戦いと並行して行われた戦争でした。いかに、世界各地に植民地を持つ経済大国のイギリスといえど、負担しきれないほど巨額の戦費を必要としました。

イギリス議会は、北米大陸の13州植民地も戦費を負担すべきだと考え、新税を賦課しようとします。例えば、1765年には印紙法を出して証書・証券類・パンフレット・新聞・広告、果てはカルタまで最高10ポンドの印紙を貼ることを義務付けました。

印紙法に対し、パトリック=ヘンリは「代表なくして課税なし」と反発します。1773年、イギリス政府は茶法を出し、東インド会社に植民地の茶販売を独占させようとしました。

植民地側は激しく反発。ボストン港で東インド会社の茶を海に投げ捨てるボストン茶会事件をおこしました。対立が深まった両者はついに武力衝突。アメリカ独立戦争へとつながります。

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