皇女時代
Andreas Møller – Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, リンクによる
神聖ローマ皇帝の位に就けるのは男性のみ。また、ハプスブルク家が支配するオーストリアも、「サリカ法」を定めており、女性が君主になることはできませんでした。
ではマリア・テレジアはどうして「女帝」となることができたのでしょうか。その秘密から探っていきましょう。
誕生までの下準備
1717年、ハプスブルク家の家長にして神聖ローマ皇帝であるカール6世を父に、后妃であるエリザベート・クリスティーネを母にマリア・テレジアは誕生します。マリア・テレジアの上にもう一人、兄がいたのですがわずか1歳で夭折。両親のもとにはマリア・テレジア以降は女の子ばかりが生まれます。
カール6世はなかなか子どもに恵まれなかったこともあり、1713年に先を見越したように「国事詔書(プラグマティッシュ・ザンクツィオーン)」を発令。ハプスブルク家の領地が分割されないことと、もしも男児に恵まれない場合には女児にも継承権があることを内外に示します。
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結婚問題
しかし、その一方でカール6世は長子たるマリア・テレジアには帝王学を一切施しませんでした。もしかしたら、男子の誕生に一縷の望みを掛けていたのかもしれません。
ハプスブルク家の家督をマリア・テレジアが相続できるようになっても、神聖ローマ皇帝の地位は女性では就くことはできません。カール6世の後を継いで帝位に就くのは、マリア・テレジアの夫となります。
この時、候補に挙がっていたのはプロイセンの王太子です。のちのフリードリヒ2世ですが、カール6世はロートリンゲン家との縁を深めることを決意。フランツ・シュテファンがマリア・テレジアの夫となることが決まります。
大変珍しい恋愛結婚
一見政略結婚にも見えるような結びつきですよね。フランツ・シュテファンはウィーンに留学に来ており、カール6世に大変目を掛けられていました。
マリア・テレジアは6歳のころからフランツ・シュテファンと面識があり、次第に少女らしい淡い気持ちを募らせるのです。つまり、幼い頃の初恋を実らせた形になりますね。
フランツ・シュテファンも年下ながら聡明な少女が成長するにつれ好意を持つようになります。やがて結婚した2人はどこから見ても円満で温かい家庭を築き、16人もの子供たちを設けることになるのです。
カール6世の死とオーストリア継承戦争
円満に幸せに続くかと思われた生活ですが、諸外国との軋轢をうまく調整していた父、カール6世が病死すると状況が一変します。国事詔書の内容を認めたはずの諸外国が、次々と反旗を翻したのです。
先頭に立ったのはプロイセンのフリードリヒ2世。白々しくも、若き女王マリア・テレジアの救援を名目にシュレジェンに侵攻してきます。四面楚歌のオーストリア軍は終始旗色悪く、結局はイギリスの仲介で和睦。シュレジェンをプロイセンに割譲する屈辱を味わうことになるのです。
一説にはマリア・テレジアに盛大にフラれたフリードリヒ2世がことあるごとに因縁をつけて回ったという見解もあるんですよ。正直、眉唾ものなのですが、偉業を成し遂げた偉い王様が意外と小さなハートの持ち主だということが少し面白く感じられます。なお、フリードリヒ2世が女性嫌いだったという話を聞くと、この説も妙に信憑性があるように響くのが不思議です。
ハンガリーを味方に
オーストリア継承戦争では、苦境に立たされたマリア・テレジア。彼女が頼ったのはハンガリーでした。生まれたばかりの長男(のちのヨーゼフ2世)を抱えて必死の説得にあたり、ついには彼らの支持を勝ち取ることに成功、ハンガリー女王として即位します。若く、美しく、聡明なマリア・テレジアの姿はハンガリーの人々に鮮烈な印象と感動をもたらしました。
オーストリアという国はこの時、瓦解一歩手前という非常に危機的状況でした。ハンガリー軍隊は少数精鋭。今にも崩壊しそうなオーストリアにハンガリーが協力をしたという事実は、敵対国に大きな衝撃を与えました。以後、ハンガリー軍はオーストリアに忠誠を尽くし、主力として活躍することになるのです。