大統領になるまでのリンカーン
リンカーンは開拓農民の子として丸太小屋で生まれました。幼少時にはインディアンとの争いで祖父を失ったリンカーンは、裁判に負けて土地をすべて失った両親とともにケンタッキー州やインディアナ州の農村で生活します。成長したリンカーンは政治活動のかたわら、弁護士としても活躍。イリノイ州上院議員に当選しました。その後、リンカーンは奴隷制度の拡大に反対します。
開拓農民の子供として生まれたリンカーン
1809年2月、リンカーンはケンタッキー州のラルー郡にあった丸太小屋で誕生しました。父のトーマスは開拓農民で、一時は財を成して陪審員なども務めますが、土地の権利証が偽物だったことから裁判で訴えられ、開拓した土地を失ってしまいました。
一家は生計を立てるためインディアナ州に移住します。リンカーンが9歳の時、母が病死。姉もリンカーンが19歳の時に亡くなりました。開拓農民の出で無学だった父は教育に熱心ではなく、リンカーンは約1年分の基礎教育を受けただけだったといいます。
それ以外の彼の知識や教養は独学で学んだものでした。22歳の時、父はイリノイ州コールズ郡へ移住しましたがリンカーンは父の元から独立。イリノイ州ニューセイラムの街で雑貨屋の店員となりました。その後、川船乗りや製粉業、郵便局長などを務めて生計を立てます。
政治活動の開始と弁護士活動
1832年、23歳になっていたリンカーンはインディアンとの戦いであるブラック・ホーク戦争に志願兵として参戦します。この時、彼は仲間たちから推薦され部隊の大尉となりました。後年、彼はこのことがとても嬉しかったと述べています。
戦争後、彼はイリノイ州議会選挙に立候補しましたが落選しました。1834年、リンカーンは二度目の州議会議員選挙に挑み当選を果たします。この間、リンカーンは独学で法律を学び弁護士資格も取得しました。
弁護士となったリンカーンはイリノイ州の州都であるスプリングフィールドに移り住みます。徐々に実力をつけたリンカーンは1846年に連邦下院議員選挙で当選。国政へと活躍の場を移しました。
このころ、アメリカはメキシコとの間で戦争を行っていましたが、リンカーンはこの戦争に反対。世論の反発を受けて政治家を引退しました。議員をやめた後、リンカーンはスプリングフィールドで弁護士として活動。依頼者に誠実に接したことから「正直者のエイブ」とよばれます。
奴隷制拡大をめぐる国内対立
19世紀初頭、アメリカでは奴隷をめぐって各州の対応が分かれていました。工業を中心とする北部諸州は奴隷制度に反対、農業労働力として黒人奴隷を使用していた南部諸州は奴隷制度に賛成の立場でした。
1820年、ミズーリ州を奴隷制度を認める奴隷州として連邦に加入することを認めるかわりに、北緯36度30分以北に奴隷州を作らないというミズーリ協定が結ばれます。
1851年、ストウ夫人が書いた『アンクルトムの小屋』は人道的な立場から黒人奴隷の悲惨さを訴えた小説で、アメリカ国内で大反響を呼びました。こうした奴隷制度反対の声が高まっても、奴隷制度はなくなるどころか、拡大の様相を示します。
1854年、カンザス・ネブラスカ法が制定されミズーリ協定は破棄されました。この協定では、奴隷州にするか奴隷を認めない自由州にするかは住民の意志によって決められると定められます。
1857年、連邦最高裁判所は奴隷州の黒人奴隷の市民権を認めず、黒人奴隷は人間ではなく財産に過ぎないとの判断を示しました。
共和党結成とリンカーンの政界復帰
カンザス・ネブラスカ法や連邦最高裁判所の判決を見て危機感を覚えた奴隷制拡大反対論者は共和党を結成します。リンカーンは奴隷制度の拡大には反対していましたが、南部諸州の奴隷制廃止までは考えていませんでした。
アメリカは日本に比べて各州の力が強く、州の内政には関与しないという立場ですね。奴隷州が南部だけにとどまっていれば、そのうち、制度そのものが消滅していくだろうとリンカーンは考えたようです。
しかし、カンザス・ネブラスカ法や連邦最高裁判所の判決はリンカーンの予測が甘かったことを証明してしまいました。彼は、黒人奴隷制度が永久に定着してしまうことを阻止するため、共和党に参加します。
リンカーンが指導力を発揮した南北戦争
1860年の大統領選挙に奴隷制拡大反対論者のリンカーンが当選すると、南部諸州は危機感を強めました。リンカーンは南部諸州に、奴隷制廃止は求めないとして連邦の分裂阻止を訴えますが、南部諸州は離脱を宣言。アメリカ連合国を建国。南北戦争が始まりました。戦争はリー将軍率いる南軍が善戦し、北軍は苦戦を強いられます。リンカーンは西部諸州を味方につけるためホームステッド法を制定。さらに、奴隷解放宣言を出して戦争の大義を訴えました。
南部と北部の立場の違い
奴隷制度をめぐって北部と南部の対立は深まりつつありましたが、奴隷以外の点でも北部と南部には相違点がありました。
北部の奴隷制反対諸州は自由州とよばれます。北部の中心産業は工業や商業で、基本的に奴隷を必要とする産業ではありませんでした。貿易面では国内産業を育てたいという意識が強く、外国製品の輸入を制限する保護貿易を主張します。北部では連邦の力を強めるべきだとする連邦主義を唱えた共和党の力が強まりました。
それに対し、南部の中心産業は綿花栽培を中心とする農業。綿花を安価に大量に生産し、収穫するためには黒人奴隷の存在が必要不可欠でした。収穫された綿花はイギリスへと輸出されイギリス産業革命を支えます。そのため、貿易を制限しない自由貿易を志向。南部諸州は各州の自主性を尊重する州権主義を唱えた民主党の基盤となります。南部と北部の立場の違いは、やがて戦争へとつながりました。