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江戸の町の大半を焼いた「明暦の大火」日本史上最大の大火災をわかりやすく解説

「火事」は木造建築が主流の日本人の生活と切り離すことのできない災害。特に江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の華」などという言葉が表す通り、江戸の町はたびたび大火事に悩まされてきました。特に有名なのが、江戸初期に発生した「明暦の大火(めいれきのたいか)」。急激に人口が増えた巨大都市・江戸の大半を焼き尽くしたと言われる大火事です。いったい何が原因だったのか、江戸の町はどのようにして復興したのか……今回の記事では「明暦の大火」について詳しく解説してまいります。

原因は?被害状況は?明暦の大火の全容

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豊臣の時代が終わり、徳川幕府によって日本の政治の中心となった江戸。もともとは野原や沼地が広がるのどかな村に過ぎなかったこの地に、あっという間に巨大な都市が築かれ、1657年(明暦3年)には30万人近い人がひしめき合うように暮らしていたのだそうです。そんな大都市・江戸を襲った大火事「明暦の大火」。震災や空襲による火災被害を除けば、日本史上最大の火災にあたるともいわれています。まずは「明暦の大火」の原因や被害状況について詳しく見てまいりましょう。

死者3万人以上?!江戸時代・空前絶後の大火災

「明暦の大火」は明暦3年1月18日~20日(1657年3月2日~4日)に発生しました。

この年の干支から「丁酉火事(ひのととりのかじ)」と呼ばれることもあります。

発生した日が複数日(18日~20日)に渡っていますが、これは、火元となる火災が3件あったことから。まず18日に本郷丸山の本妙寺から出火。続いて19日に小石川から、20日に麹町から、それぞれ出火し、真冬の強風に乗って延焼。1件目が沈下しないうちに次の火災が起き、史上最悪の大災害へと発展してしまったのです。

これら3件を火元とする火災を総称して「明暦の大火」と呼んでいます。

正月明けて間もない18日の午後2時頃、本妙寺(現在の東京都文京区本郷付近)から出た火はあっという間に湯島や神田方面へ広がり、神田明神や湯島天神、東本願寺、その先に広がる大名屋敷も巻き込んで、その影響は墨田川の対岸にまで及んだのだそうです。一帯には庶民が暮らす密集地帯が点在。延焼の範囲は5㎞以上といわれており、逃げ場を失い業火で命を落とした人の数は3万人とも伝えられています。

本妙寺の火災がまだおさまらない19日の午前10時ごろ、小石川の水戸屋敷近く(現在の東京都文京区小石川3丁目付近)で火災発生。新鷹匠町の大番衆与力の宿所が火元ともいわれていますが、この火災は瞬く間に水戸藩邸を焼き払い、飯田橋、九段へと延焼。火は江戸城にまで及びます。

3番目の火災は同日19日の午後4時ごろ。麹町(現在の東京都千代田区麹町3丁目付近)の民家から出た火は強風にあおられて拡大し、新橋方面まで延焼。周囲の大名屋敷などを巻き込んで猛威を振るいました。

大きな火事が3つ重なって、火災の範囲は広大なものに。死傷者の数も、3万人とも10万人とも伝わっています。

別名「振袖火事」?明暦の大火にまつわる逸話の数々

「明暦の大火」というと「振袖火事(ふりそでかじ)」という別名を思い浮かべる方も少なくないでしょう。

これは、火元となった3つのうちの本妙寺の火災の原因といわれる伝承からきています。俗にいう「振袖火事」のざっくりとした内容は以下の通りです。

母親の墓参りのため本妙寺を訪れた若い娘・梅野(梅乃)が、寺の小姓と思しき美少年に一目惚れ。恋の病に取りつかれてしまった娘は寝込んでしまいます。心配した両親が、その美少年が来ていた服と同じ柄の振袖を作って娘に渡しますが病は治らず、とうとう帰らぬ人となってしまうのです。両親は娘の棺にその振袖をかけて埋葬します。

その当時は、棺とともに寺に納められた遺品は、その寺の扱いになっていました。本妙寺はいつも通り、娘の振袖を古着屋に売りますが、その振袖を買った娘たちが次々と若死にするなど不穏なことが続きます。只事ではないと感じた本妙寺の住職は振袖を焼いて供養しようと、お焚き上げの火の中に入れた途端、強風が舞い上がり、本妙寺の本堂を焼き払ったのだそうです。

…と、いうのが「振袖火事」の伝承のあらましですが、これはあくまでも伝承であり逸話であって、実際の原因とは異なると考えられています。

呪いか祟りか、との噂が広まってもおかしくないほど多くの人々の命を奪った「明暦の大火」。このほかにも、徳川幕府滅亡を目論む一派による放火説や、急激な人口増加に頭を悩ませた徳川幕府による放火説などもまことしやかに語られています。

乾燥と強風:明暦の大火・火災の原因とは

では、「明暦の大火」の本当の出火原因とは何だったのでしょうか。

明暦3年は、その前の年からずっと、雨がほとんど降らない異常気象が続いていたと伝わっています。80日以上も雨のない日が続き、空気は大変乾燥していたのだそうです。そのため、年明けからすでに、江戸の町のあちこちで火事が続発していました。

そこへきて前日の17日あたりから北西の強風が吹きはじめ、20日ごろまで吹き続けます。

季節は真冬。空気は冷たく、家屋の屋根や柱は乾燥していて、わずかな火種でも広範囲に燃え広がる可能性が高かったと考えられています。

江戸時代の家屋の大半は木造です。それも、急激な人口増加を遂げる江戸の庶民の家は、ほったて小屋みたいな簡素なつくりの長屋が多く、ただでさえ火事の多い構造。さらに強風が数日続くという悪条件が重なって、大惨事につながってしまったのでしょう。

江戸初期の仮名草子(散文などの軽い読み物)『むさしあぶみ』に、明暦の大火で焼け出された人々が逃げまどう様子が描かれています。浅草橋まで逃げてきた群衆を「集団脱獄」と誤解した役人が門を閉め、逃げ場を失った人々が堀に落ちる様子などが書き残されており、このことが、死傷者を増やす要因になったのでは、とも言われているのだそうです。

「火事と喧嘩は江戸の華」そんなに火事が多かった?

日本の建物は木造・茅葺きが中心ですので、江戸に限らず、京都や大阪(大坂)でも火事は発生していました。しかし、江戸の火災の件数は、京都や大坂の比ではありません。なぜそんなに火事が多かったのでしょうか。

明暦3年ほどではないにしても、江戸は古くから、冬場は北西の季節風(空っ風)が吹き込み、何日も雨が降らず乾燥した日が続くことがありました。春先は春先で、強い南風が吹き込みます。

もともと何もない野原や沼地に、家をたくさん建てて急速に発展を遂げた江戸の町。徳川家康が江戸に入って町づくりを始めたころから、火事は江戸の町の悩みの種となっていたのです。

こうした火災に対応するべく、早い段階から江戸の町には「火消し」と呼ばれる消防チームが組織されていました。しかし、江戸初期の頃にはまだ、十分な体制が整っておらずうまく機能していなかったようです。

また、江戸幕府は町人たちに対しても、火事に対する心構えや見回り体制の強化など数々のお触れを出していました。しかし、こうした努力もなかなか実らず、火災の件数は増加する一方だったようです。

蘇る江戸の町……明暦の大火の影響とその後

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江戸の町の6割を焼き尽くしたといわれる明暦の大火。特に幕府が開かれた当時に大量に建てられた密集住宅は大半が焼けてしまい、多くの庶民が焼け出され路頭に迷うこととなってしまいます。江戸の町の復旧はどのようにして行われたのでしょうか。明暦の大火の後の動きについて詳しく見ていきましょう。

食料支給!被災者を救え!徳川幕府の動きと財政状況

多くの人が被災した明暦の大火。

家も仕事も失った人々は、江戸を離れていってしまうかもしれません。そうなっては一大事。徳川幕府は直ちに対策に乗り出します。

まず行ったのが、食料の配給などの救済措置です。

災害が起きると、どうしても米や材木の値段が跳ね上がり、暴動につながることもあります。幕府はそうした事態を避けるため、米や材木の値段が高騰しないよう、米倉の備蓄米を放出。町中では被災者に粥の炊き出しが行われるなど、実践的な救済活動が盛んに行われます。

また、持ち家の建て替えや新しい借家探しのための資金援助など、身分を問わず多くの人々に手を差し伸べるの政策も施行されました。

町の復興とともに行われたのが、火災の犠牲となった人々の供養です。

明暦の大火では、数万にものぼる多くの尊い命が奪われました。焼け出され亡くなった人々の遺体は船で川を下り、牛島新田というところへ運び込まれたのだそうです。万人塚と呼ばれるその場所に建立されたのが回向院(えこういん)。現在も当時と同じ場所(東京都墨田区両国)に佇んでいます。

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