西部開拓の背景
19世紀にはいると、アメリカは西へ西へと領土を拡大しました。1848年にカリフォルニアで金が発見され、ゴールドラッシュが始まると西部開拓はいっそう盛んになります。リンカンが南北戦争中に出したホームステッド法は西部開拓の意欲をなおいっそう高めました。南北戦争後、アメリカ資本主義屋大陸横断鉄道の完成などがあり、西部開拓の環境が整います。
アメリカの領土拡大
アメリカは独立時のパリ条約で東部海岸やその周辺地域を領土と認められました。第3代ジェファソン大統領の時にフランスからルイジアナを買収し領土を西へと広げます。アメリカは西部と南部でスペイン領メキシコと接するようになりました。
1821年にメキシコがスペインから独立後、アメリカとメキシコは国境をめぐって争います。このころ、アメリカからメキシコ領テキサスに移住する人々が増加しました。
テキサス人口の4分の3まで増えたアメリカ系移民はメキシコから独立を宣言。アメリカ合衆国に併合を請願しました。アメリカがテキサスの請願を受け入れ併合するとメキシコとの関係は決定的に悪化。アメリカ=メキシコ戦争に発展しました。
1846年から1848年まで行われたアメリカ=メキシコ戦争でアメリカが大勝。メキシコにテキサスだけではなく、カリフォルニアなどを含む広大な地域を割譲させました。
ゴールドラッシュ
1848年、アメリカ=メキシコ戦争で獲得した太平洋沿岸のカリフォルニアで大事件が起きました。開拓拠点に派遣されていた一人の男が、川の水路で小さな金の塊を見つけたのです。この報せはたちまちアメリカ中に広まります。
カリフォルニアで金が出たという話を聞いた人々はアメリカ中からカリフォルニア近郊のシエラネバダ山脈に殺到しました。1849年から移民が本格化したため、49年に移民した人々を「フォーティナイナーズ」とよびます。カリフォルニアに移住した人々は49年だけでも8万人に及びました。
ゴールドラッシュはカリフォルニアの人口を急増させ、1860年には36万人もの都市に急成長します。移民したのは主に東部に住んでいた白人でした。彼らの西部進出は現地のインディアンを圧迫します。
ホームステッド法の制定
西部開拓を進めるきっかけになった法律として、ホームステッド法があります。ホームステッド法は1862年、リンカン大統領が出した法律です。法律の内容は、21歳以上のアメリカ市民がミシシッピ川以東に一家で移住し、5年間定住した場合は160エイカーの土地を無償で与えるというものでした。
リンカンがホームステッド法を制定した理由は、西部諸州をリンカン率いる北部の味方として引き入れるためでした。リンカンの狙いは的中。西部諸州はリンカン支持を打ち出しました。
ホームステッド法が出される前、アメリカ政府は公有地の払い下げに慎重で、一般の、しかも小規模な開拓農民が払い下げを受けるのは困難でした。ホームステッド法制定により、資本が少ないものでも土地の払い下げを受けられるようになり、西部開拓が進むきっかけとなります。
大陸横断鉄道の開通
南北戦争中の1862年、アメリカ議会はアメリカの東部と西部を結ぶ鉄道を通すため、特許会社をつくる法律を可決しました。西部開拓が進むにつれ、交通網を整備してほしいという開拓民の要望が高まったためです。
法律に基づいて2つの鉄道会社、ユニオン=パシフィック鉄道とセントラル=パシフィック鉄道が設立されました。ユニオン=パシフィック接道はオマハから西へ、セントラル=パシフック鉄道はカリフォルニア州のサクラメントから東へと鉄道を敷設します。
1869年に二つの鉄道がユタ準州で接続。大陸横断鉄道が完成しました。鉄道建設には中国から移住してきた華僑たちが労働力として動員されます。彼ら中国人労働者のことを苦力(クーリー)といいました。大陸横断鉄道の完成は西部開拓を大きく進展させます。
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西部開拓の進展とインディアンとの戦い
西部開拓時代を描いた映画『大草原の小さな家』。1870年代の白人開拓農家の様子を描いた映画です。作者のローラ=インガルス=ワイルダーの実体験に基づいた映画でした。白人農民による西部開拓が進むことにより、原住民であるインディアンは土地を奪われ、へき地へと追いやられます。インディアンはアメリカ南西部の保留地に押し込められました。
マニフェスト=ディスティニー
19世紀、アメリカではマニフェスト=ディスティニー(明白な天命)という標語が流布しました。ヨーロッパからアメリカに渡った文明は西へ西へと拡大していくとする考え方です。これは、アメリカによるインディアン征服戦争を正当化する論理でもありました。
アメリカが領土を西へと広げるにつれ、原住民であるインディアンの抵抗も激しさを増します。1830年、ジャクソン大統領はインディアン強制移住法を制定。インディアンをミシシッピ川以西に追いやります。
特に、チェロキー族の移住は悲惨でした。彼らが原住地であるミシシッピ川東岸からオクラホマ州の居留地に強制移住させられたことを「涙の旅路」といいます。過酷な移動で部族の4分の1が命を落としました。
アメリカ政府はマニフェスト=ディスティニーというスローガンを掲げることで、インディアンから土地を取り上げることを「神によってアメリカ人に与えられた使命」だと正当化します。